Katastroke interview 2

琉球舞踊 仲村智子

聞き手 : 増田美佳 収録日2020/3/16

「花風(はなふう)」明治以降の創作舞踊。ゆったりとした旋律から準古典舞踊とも呼ばれる。

琉球舞踊…古典舞踊、雑(ぞう)踊り、創作舞踊に大別される。宮廷舞踊とも呼ばれる古典舞踊は首里王府によって庇護され熟成し、芸能は外交政策の重要な柱として位置づけられ、主に外国からの使者や役人の前で踊られた。廃藩置県後、役人舞踊家たちは禄を失い芝居小屋で役者となり、庶民の生活や想いをテーマに革新的な舞踊を作り上げた。それらは雑踊りと呼ばれるようになる。琉球の島々や各地に継承されている民俗舞踊は今も祭祀舞踊としての趣を色濃く残し、戦後の創作舞踊は古代からの舞踊の伝統の要素を取り入れ、今も創作されつづけている。

−まず仲村さんが琉球舞踊を始められた時期ときっかけについて伺えますか。

仲村 きっかけは…わからないですね。私の母は幼い頃から舞踊をしていて、結婚して兵庫県の方に出て来て教室を始めたんですけど。まあだからお腹の中にいるときから音楽は聞いてただろうし、産まれたあとは当時預ける場所もなかったので、ずっとお稽古場に連れて行かれて、気付いたらやってたという感じなので、いつから始めましたっていうのもないというか(笑)

−じゃあもう物心ついた時にはやっていたという。

仲村 そうですね、やっていたというか生活の一部でしたね。水曜と土曜がお稽古日で。朝起きてご飯食べて学校行って、帰って来たら踊りがあって、風呂入って寝る、みたいな生活だったので、特に習い事っていう意識もなかったです。

−なるほどお母さんから習われたんですね。私は琉球舞踊をまだ動画でしか見たことがないくらいの知識なんですが、流派のようなものはあるんですか?

仲村 ありますけど、元々を辿っていくと首里城の中で中国や薩摩からのお客様を迎え入れてもてなすための芸能だったので、それが明治維新をきっかけに廃藩置県で首里城がなくなって、お城で踊っていた皆さんが町に下りて行ってそれぞれの舞踊になっていった。だから源流というのはひとつで、そこから細かく分かれて今は日本舞踊のようにたくさんの流派に派生していっていると思います。

「四つ竹(よつだけ)」首里城内で賓客をもてなす際に舞われていた古典祝儀舞

−動画で見た印象だと、かなりいろんなタイプの踊り方があるように思ったんですけど、神楽とか能の印象がちょっとあるというか、すごくゆっくり動くタイプの踊りが結構多いように見えました。

仲村 琉球舞踊は古典舞踊と雑と書いて雑(ぞう)踊りに別れるんですけど、古典舞踊はさっきお話しした首里城からの流れで、雑踊りは庶民の生活をモチーフに創作されたものなんですよ。で古典芸能を最初に作った玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん)は江戸上りの際たびたび随行し、能や狂言、歌舞伎などを見て取り入れてるので、歩き方も摺り足で題材も道成寺ものだったり羽衣伝説だったりというのを沖縄版に作り上げたという経緯なので、能の影響というのは多大に受けていると思いますね。 

−沖縄に持ち帰られて沖縄風になったという部分の特徴というのは、まず音楽があると思うんですけど、そのほかにどういうところに特徴を感じられますか。衣装とかはやはり紅型染を使うんだなと思って見てました。

仲村 そうですね。今の琉球舞踊界は古典舞踊イコール紅型の衣装なんですよ。女踊りに関しては。ですけど、首里王朝時代の絵巻物なんか見ると、紅型衣装を着て踊っている絵は見かけないんですね。中国や京都から入ってきた織物、唐織などが高級品とされたので、それを着て踊るというのが最高のおもてなしだったようです。紅型衣装というのは当時は上流階級の女性の礼服として使われていたようで…。今このあたりのことを研究されてる方がいらっしゃるんですけど、本当のこと言うと舞踊界ひっくり返ると仰って。そういう研究発表などを伺うことがあるのでいろんな情報を得ながら、私の活動の場は沖縄じゃなくてここ(関西圏)だから、まあ私なりの考えを持っていろんなことをチャレンジしたいと思っているんですけど。
だけど結局いろいろあった資料や書籍などが戦争で全部なくなってそこからもう一度、記憶に残っているものはそのまま引き継がれたんだろうし、無いものは無いもので当時の人たちがああじゃないかこうじゃないかと一生懸命考えてきたものが今引き継がれているので。またこれからの時代いろんな文献を研究される方も出てくるでしょうし、その中で歴史どんどん変わるじゃないですか。遺跡が出てきて今まで習ってきたことと違う展開になってきたのと同じで。

−そういえば、動画で琉球舞踊を見ていた中に、般若のような面を着けてるものがあって気になったんですけど。

仲村 それは組踊(くみおどり)という琉球の国劇で道成寺をヒントに創作された「執心鐘入(しゅうしんかねいり)」じゃないですかね。

−ああ、たしかに衣装も鱗柄でした。

仲村 そうそう。蛇に変わってというお話です。基本的な筋書きは一緒なんですけど、人物設定とストーリーが違っていて、組踊の場合は僧侶にお経でおさめられて心を鎮められて去っていくという流れになります。

−そうなんですね。なんとなく一口に琉球舞踊と言ってもソロも群舞もあるし、能の形式に近いものもあったり、かなりバリエーションがある印象です。女性舞踊、男性舞踊というような分け方もあるんですか?

仲村 女踊り、男踊り、それから元服前の男性の二才踊りというふうに分かれています。

−女性が男性、男性が女性の役をすることもあるんですか?

仲村 あります。元々首里城の中で踊られていた頃は踊り手は男性だけでした。歌舞伎と一緒です。美形ばかり揃えてやっていたらしいですが、女性が舞踊を支えるようになったのは戦後ですね。戦争で芸能が一旦途絶えて、それを守り通してきたのはこっちで言う花街のようなところ。王朝時代から薩摩や中国からの役人や商人を舞や音楽などの芸や料理でもてなした所です。そこの女性たちが継いできた部分が大きくて。だから戦後生まれの私の母が踊りを習いたと言ったら、母親に反対されたと言っていました。「踊り子か」っていう扱いで、母は隠れて「そろばん行ってくるー」と言って踊りを習いに行ってたらしいです(笑)だから母は結婚して関西に越して初めてこっちで公演すると伝えたときに「踊り続けてたの?」と驚かれたと。そこまでずっと黙っていたみたいです。

−おもしろいですね。お母さんが習っていた先生は男性だったんですか?

仲村 一番最初は男性です。戦後すぐの頃は、踊りをしながら役者もしている人が多かったようです。村々に芝居小屋があって、転々と公演するような。それこそ時代が時代なので米軍基地の中に慰問に行ったとか。そういう役者たちが地域の人たちに踊りを見せて子供や大人に踊りを教えてという流れがあったようです。そこから数十年後にようやく沖縄県立芸術大学の中で伝統芸能を専攻する学科もできたので、踊りの、舞踊家としての地位が少しずつ上がってきて。男性も増えてきて今は男性舞踊家グループも活躍の幅を広げています。何年か前に坂東玉三郎さんが構成、演出で、お芝居と舞踊のいわば古典的ミュージカルみたいなものをやることになって。(※2014年坂東玉三郎特別舞踊公演 「組踊りと琉球舞踊」)芸大の男性舞踊家と演奏家を集めて沖縄と東京で公演して、京都の南座にも来ていました。という感じで男性の活躍の場も増えてきています。

−なるほどじゃあ首里城の中で始まった当初の状態が復刻されている部分もあるというか。

仲村 今は廃れてしまった演目を掘り起こして研究したりもされているみたいですね。

−仲村さん自身が踊られてきた中で、琉球舞踊の魅力というのは言葉にするとどんな感じになりますか。

仲村 そうですね、私は古典舞踊の方が好きなんですが、表情に出さないんですよ。嬉しい悲しいを表情に出さない。だから文楽人形みたいな状態ですよね。表情は変わらないけど少し俯くことで悲しさを表す、目線を上げることで表情を明るく見せるとか。無駄な動きが削ぎ落とされているので、動きとしてはそんなに、あれもこれもは動かない。その中でストーリーと主人公の内面を表現していくというのがあるので、毎回自分が踊るときには今日はこういう女性像でいこうとか、自分で風景を作りながら。そこは役者と一緒ですよね。どういう主人公になるかっていうのを作りながら踊るので、私はそこが楽しいんですけど。楽しいというか苦しみもあるんですけどね(笑)そういうところはすごく魅力的ですね、私の中で。習った型だけやればいいというか、それで満足される方もいらっしゃるんですけど、そこから二歩も三歩も踏み込んで、内面的な部分に踏み込んでどう表現できるか。同じ振りでも気持ちが一入ってるのと五入ってるのと十入ってるのと、観るお客さんにとって違うじゃないですか。それをどんどん深めて行きたいなと思いながら今やってるんですけど。

−なるほど。じゃあ教えるときには最初は基本的な体の使い方、型を伝えていくんだと思うんですけど、そういう内面的な表現、型の中で運ぶべきものはどういうふうに教えていくんですか?というか教えられるものなのか。

仲村 皆さん生活している環境だったり、これまで積み重ねてきた時間が違うので、私がいつも伝えるのは、自分がどういう主人公になりたいのかまず作りましょうって言います。例えば、琉球舞踊の解説本なんかには、十代の娘が花を持ってそれを好きな人にプレゼントしたいという踊りって書いてあるけど、六十才の人が踊るのに十代の娘になってくださいねっていうとすごく不自然さがある。そうじゃなくて今いる自分の旦那さんや心に想っている人に、一生懸命摘んできた花を手渡したいという気持ちで踊ってって。まずは型、順番を覚えたら次はそういう感じでその人それぞれに合うような話しますね。別れの悲しい踊りだったら、誰と別れるのか、親、兄弟、旦那さん、小さい子供を失ったときの気持ちかもしれないし、自分がいちばんこの感情だったらぴったり入りやすいなと思うのを探してみてと。だから無理のない状態ですよね。

−おもしろいですね。型自体は変わらなくてもその中にある感情は個人の中から引き出してきて、それを生かすというか。

仲村 十代、三十代、熟年といろんな年齢層をイメージした踊りがあるんですけど、踊る側は四十代でも十代の踊りをしなきゃいけない、六十代の踊りもしなきゃいけないし、でも今のまんまじゃ不自然さがあるのと、単に踊ってるだけにしかならないので、十代を踊るのに当時を思い出して踊るのもオッケーだし、いや、この十代の踊りを六十代に持ってきて踊るとどうなるんだろうとか、だから解説がこうだからこうしましょうじゃなくて、自分で好きにイメージしていいと思うんですよ。っていうかたちで私は伝えてます。

−内面の自由度をやれるのって型によって表現が抑制されてるというか、たくさん動くタイプの踊りではないからこそ出来る部分があるのかなと思うところがあります。表情に出さないっていうところとかも。自分を動かす表現のエネルギーみたいなものを中に持ってて、でも表面は静かにしながらそれが少し見えるくらいというか。

仲村 これを伝えるところまではいくんですけど、あとは受け取る人がどこまで受け取ってくれるかというのはまた別の話になってくるので。イメージした通りに動いて表現できる人っていうのはなかなかいないですから。でも皆さんそれぞれに何かを感じ取ってやればまずはそれでいいのかなと思います。

−習いに来られる人って沖縄に縁がある方だけじゃなくて、他府県出身の方もいらっしゃると思いますが、皆さんどういうきっかけで始められるんですかね。

仲村 九割他府県の方です。私が子供の頃は親やおじいちゃんおばあちゃんが沖縄出身だから習わせたいっていうのが多かったんですけど、ここ二十年以上は沖縄が好きだからとか、音楽が良いからって。観光に行って、見てやってみたいという感じの方がほとんどです。それと年配の方になるとジャズダンスみたいな激しいのはできないけど、これなら体を動かせるかなっていう感じで。

−ゆったりしているからお年を召してからでも始められるんですね。沖縄で生まれ育った場合はもうちょっと琉球舞踊を始めるきっかけは身近にあったりするんでしょうか。例えば学校の授業とか。

仲村 芸能に触れる時間はたくさんありますね沖縄の場合。保育所でもみんなで踊る機会があったり、体育とか、あとエイサーっていうのも運動会では必ず入ってますし。今は小学校のクラブ活動でも三線クラブがあったり、皆で文化と芸能を大事にしようっていうことで。「沖縄は芸能の宝庫」って呼ばれるくらい、本土より身近にあると思いますね。

−やっぱり琉球音階って独特の、温暖な気候の島であの感じはすごくいいよなって思うんですけど、あの音階に作られる体っていうのはある気がします。

仲村 ありますね、音階だけでなくDNAですよね、特に踊りを習ったことないおばあさんとかでもカチャーシーという即興踊り、結婚式とかで皆で踊るようなのがとっても上手だったり、習ったことなくてもリズムよく踊れる。

−文化の中に歌や踊りが身近だというのがまずあるんですね。それは羨ましいことだなと思います。

仲村 そうですね、各地域ごとに芸能が、田舎の方に行けば古いままの村祭りが残ってて、祭りのために皆で歌と踊りを練習したりっていう習慣があるので。それに比べてここ(本土)にいるとあまりそういう地域の芸能って言われたら無いな、みたいな。地元の何かって言われたら、私は尼崎なんですけどだんじりも踊るわけじゃないし。沖縄はもうちょっと地域ごとに残ってますね。

−仲村さんはずっと関西にお住まいなんですか?

仲村 私は沖縄に住んだことはないです。両親とも沖縄で生まれ育ち、父は集団就職で復帰前にパスポートを持って本土へ、母は結婚を機に渡ってきました。私は沖縄県立芸術大学琉球芸能専攻(1期)を受験したのですが不合格で、翌年大阪芸術大学舞台芸術学科に合格し、沖縄に住むきっかけがないまま現在に至っています。(笑)

−沖縄に行くと帰ってきたみたいな感覚はありますか?

仲村 うーん、芸能の部分に関していうとあまりそういう風に感じたことはなくて。というのは、私は母が習得した舞踊をそのまま教わったけれど、沖縄は非常に舞踊人口が多いので切磋琢磨して踊りがどんどん変わって行くんですよね。変わるっていうか、例えば娘が今沖縄芸大に行ってるんですが、今年の2月に向こうで娘と踊る機会があって、娘は沖縄の先生について教わってるんですね。一緒に踊るとき、じゃあ私はあなたに合わせるねって、私が娘の振りに合わせてたんですけど「え、こここんなやり方か」っていろいろ変わってる部分がある。娘の先生にしたら私の踊りは二十年前の型をそのままやってますよねって。そこからどんどん進化してるんですよ。うーん、進化なのか退化なのかはわからないんですけど、変化していくんですよ。「私が習っていた頃のままの踊りを今もされてるんですね」って娘の先生に言われて、ある意味骨董品扱いというか。

変わらず守り通してる、変化の波に飲まれずに昔の型をそのまま残しているのが今の私の踊りなんだなって改めて実感して。それで別に沖縄にいちばん古いものが残らなくても、離れた場所で私が残してても、新しいものに一緒に変えなきゃって思いを抱かなくてもいいなってこの一、二ヶ月思ってて。

なんかね、どんどん簡素化していくんですよ。振りが少なくて余計なものを削ぎ落としている舞踊だけど、やっぱりどこか小技を効かせる部分もあるんです。その小技をどんどん削っていっているような気がするんですよ。本当は何年もかけて習得する技かもしれないけど、それをやってるとお弟子さんが退屈してどんどんいなくなる、辛いのが嫌だって離れるからそうならないためにもっと簡単にやりやすくして、弟子を増やしておこうみたいな方向なのかと思ったりもするんですけど。だから最近の若い人の踊りはちょっと味気ない、あっさりしすぎで、もっと思いが入る部分があってもいいのにスッとあっちに向いてしまうみたいな。もうちょっと溜めがあったらきれいなのに、伝わるのにというところをラクして踊らせてる感じがして、もったいないなと思うんです。でもだからこそ改めて難しいけどそこは残していきたいなと思いましたね。

−娘さんも始められたのは仲村さんの姿を見てですか?

仲村 私のきっかけと一緒です。ずっと連れ歩いてて(笑)だけど途中、小学校の四、五年で自我が芽生えてきた頃にもうイヤみたいな感じになって、ああイヤだったらクビって言って(笑)二年ほど放置してたらやっぱりやりたいと。でも私じゃなくてもうひとり、大番頭の先生がいるんですけど、先生に自分で頭下げて、やりたいですよろしくお願いしますって言いなさいって言って、それからは続いてますね。

−じゃあ三代続いてるんですね。

仲村 そうですね。琉球舞踊の世界には歌舞伎みたいに何代目というのはないんですけどね。娘は舞踊家になりたいわけじゃないと思うので、何でもいいけどやりたいことやんなさいって感じですね。私も母に継ぎなさいって言われたことはないので。母は普通に就職することを多分望んでたと思う(笑)「就職すんの」「いや踊りがしたい、踊りでいい」っていう私の中ではラクな道、就職活動しなくてもいいしって来ちゃったんですけど。だから周りの人から見たら娘のことを三代目だねみたいに言いますけど、好きなことをしてほしいです。でも、どっかでやっぱり何か琉球舞踊、芸能に関わる仕事には最終的になるんだろうなとは思ってますね。

−今何回生ですか?

仲村 4回生で、大学院に進もうかなと言ってます。自分が表現するというよりは、論文、研究の方をやりたいみたいで、解説とかを作りたいなと。戦前戦後に残された書物そのまま今でも引き継いでる部分ってあるので、でも時代はどんどん変わって行って、いろんな研究も進んでる中で、そこだけ古文でいいの?!みたいなところがあるので。それはもうあなたなりの解釈を残すのでいいんじゃないのって。

「カナヨー天川(かなよーあまがわ)」明治以降の創作舞踊。男女の仲睦まじい姿を軽快な音楽でテンポよく踊る。

−琉球舞踊は現役、引退はないというか、年を重ねても長く続けられる踊りなんでしょうか?

仲村 そうですね。舞台に立てるあいだはずっと続けられる。大御所の方もたくさんいらっしゃいます。

−長く続けていくと変わってくる感覚ってあると思うんですけど、これまで踊って来られて若い時はわからなかったけど、今ならわかるみたいなことって何かありますか?踊りとの付き合い方の変化とか。

仲村 若い頃はまあ楽しく表現できたらいいかなって、いっぱい舞台に出れたら嬉しかったんですけど、今は一曲一曲をいかに丁寧に深めて踊るかっていうことを考えますね。うーん、今は考えて踊るのかな。
来年あたりに自分のリサイタル公演を企画しているんですけど、それもいっぱい踊ろうっていう気はなくて、もう3曲だけって決めて。でもこないだアドバイスいただいた方からせっかく舞踊の公演だったらあと1曲くらい増やしてもいいんじゃないって言われたり。いや、やっぱり3曲でいいかな。コロナの状況が落ち着けばいいんですけどね。
踊りを見てくださいっていう気持ちもありながら、秋の舞台で考えているのは落語家さんに手伝ってもらおうかと思っています。桂春蝶さんとご縁があって、私は女踊りを3つ踊るんだけど、ストーリーを考えて欲しいとお願いしたんです。今までの解説にある背景だけじゃなくて、主人公の女性がどのように生きてきたかっていう3人のストーリーを考えて欲しいと。で、それを語った中で踊りが出てくる。そしたら、こういう女性の踊りなのかってイメージが膨らむんじゃないかと。

−それは創作舞踊ってことですか?

仲村 ううん、古典舞踊です。その解釈を新しくする。だから踊り自体は何も変わらない。だけど女性像は今までの琉球舞踊の解説本にあるのとか違うお話を考えてもらおうと思っていて。

糸紡ぎを題材にした舞踊があるのですが、琉球では女性の仕事でしたけど、本土でもそうだったので、共通の部分があるといった表現を東京の尺八奏者の方に共演協力いただこうかなと。それは決まった舞踊音楽じゃなくて彼の即興なり、彼の演奏の中で一部分踊ってあとは琉球音楽とコラボしながら仕上げるのもいいかなとか思っています。今いっぱい考えながらまとまらずに困ってるんですけどね。だから踊りを見てもらう公演というよりは半分実験劇場的なものになるかなと。

−おもしろそう。

仲村 春蝶さんには「笑ありですか?」って聞かれて。なしであくまでもストーリーテラーでお願いしますと。彼の声が好きなんですよ。だから彼に語ってもらうのはいいなってずっと思ってて。「関西弁しか喋れませんけど、沖縄の言葉できませんけど」って言われたけど、それで全然オッケーです。琉球舞踊を踊っても、私はずっと関西生まれ関西育ちなので。そういう意味で私を表現してもらったらいいかなと。関西弁で琉球女性を語ってくださいということで。それを能舞台でやります。

−いろいろ豪華ですね。

仲村 能舞台は背景とか考えなくていいですからね。余計なことを考えずにいられるかなと。

−確かに舞台美術とかいろんなものを置いてなんとか空間を作ろうとするんじゃなくて、本当に踊りだけ見られるというか、そこに現代の言葉で語りの膨らみがあるくらいシンプルな方がきっといいと思います。それ楽しみです、見に行きます。今日お話を聞いて、琉球舞踊は今も踊られながら踊り方が更新されていることとか、仲村さんが個人で物語の解釈を新しくしようとされていたり、ずっと同じことを古典であるってことで繰り返してるんじゃなく、柔らかく軽やかな部分があるんだと感じました。

仲村 そうですね、見えない部分での変化をさせていかなければと思います。古典舞踊も最初から古典だったのではないし、みんながそれを良いと思ったから残って来たわけですからね。

仲村智子
王朝時代から伝わる伝統の薫り高い琉球文化や芸能・歴史などを広めることを目的とし、これまでにアイヌ古式舞踊やクラシック音楽など異なったジャンルとの共演、大学の依頼公演などに出演。カーネギーホールをはじめ海外公演多数。関西沖縄文化研究会を設立後は沖縄で活躍の若手芸術家育成・交流にも貢献。文化セミナーやライブなども主催。琉球古典芸能コンクール「最高賞」受賞。「尼崎市民芸術奨励賞」受賞。「ひょうごアーティストサロン賞」受賞。関西琉球舞踊研究所二代目代表。NPO法人関西沖縄文化研究会代表理事。

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