聞き手 : 増田美佳 収録日2020/1/24
バリ舞踊 大西 由希子

バリ舞踊
インドネシア・バリ島の伝統舞踊。元来はバリ・ヒンドゥーの宗教儀礼の場で踊られる舞踊であるが、時代と共に様々な舞踊演目が生まれ宗教的文脈とは切り離された場でも踊られるようになった。
王朝文化が栄えた時代に王侯貴族の庇護のもと宮廷舞踊が生まれ、現在見られるバリ舞踊の原型が確立されたと考えられている。その後、オランダ植民統治時代の1900年代初頭になると芸能の担い手が民間へと移り、新たなガムラン「クビャール(稲妻を意味する)」とその演奏で踊られる様々な舞踊演目が生み出された。以降、現在に至るまで個人による純粋な芸術舞踊としての創作も行われている。小刻みに震える手の指先、反り返った足の指、宙を見つめる目、全身の神経を張り巡らし、緩急自在に奏でられるガムランの波に乗り、音と一体となり踊られる。
―まず、大西さんがバリ舞踊を始められたのは何年前くらいになりますか?
大西 1993年で私が大学2年生だったんですけど…何年前になりますかね?
―にじゅう…(暗算できない)あとで計算しましょう! ※ 27年前
どういうきっかけでバリ舞踊を始められたんですか?
大西 これがまたベタなんですけど。大学2年の春に、当時京都の木屋町にZappaという、ちょっとお酒飲めてご飯食べられるみたいなお店があって、そこでバイトしてたんですね。そのお店のお母さんがバリ島旅行に行ったらすごいよかったらしくて、当時バリに旅行ってまだあんまり聞かない時代でしたけど、また行きたいとお客さんを誘ってバリ旅行の計画をされてたんです。私はその頃、友達とインドに行く計画があってお金を貯めていて。でも、その計画がボツになってしまって、お金はあるし同じアジアだし…初めての海外なので人と一緒の方が安心かな?と、ほんとに軽い気持ちで「私も行きます」って、一緒に一週間バリに行くことにしたんです。
一応「地球の歩き方」も買いましたけど、あんまり読まず、ほぼ予備知識なく行きました。それで向こうに行ってから観光客向けの踊りとか、お寺のお祭りも運良く見られたりして、「わー、すごいなー」といろいろ見ているうちに、なんか、だんだん体の中に浸透してきたというか…。「スマラ・ラティ」という、今も定期公演してる有名なグループがあるんですけど、その公演を見に行った時、女性が紫の衣装を着て踊るすごくかっこいい踊りがあったんです。それを見て「これを踊りたい!」と思いました。
帰国する前日に、向こうで知り合った日本料理店をされている日本人の方がバリ舞踊を習っていると聞き、「明日練習あるから見に来る?」と誘っていただいて。見に行ったところは、バリの伝統的な造りの、母屋があって、台所やいくつかの棟が敷地内に点在しているような、先生の住居でした。踊りを練習するところは屋根と柱はあるけど壁がない。そういうところで先生の後ろについて踊りを習う、という感じでした。
―鏡のあるスタジオっていう感じじゃないんですね。
大西 お家でしたね。最近だと鏡を置いている先生方も多いんですけど、当時は滅多に置いてなかったです。それで、その練習風景を見ていて…。
食事のとき、バリでは家族が揃ってテーブルでご飯を食べるようなスタイルではなく、各々好きなときに食べるんですね。そうしたら先生の妹さんとかが台所でよそってきたご飯を食べながら練習を見てたり、しばらくするとまたプイッとどこかへ行ってしまったり。その様子がこう、当時私にとって「踊り」ってもっと敷居が高くて、子供の頃から習ってないと出来ないものと思っていた、そのハードルが下がったというか。バリではみんな日常の中で普通にやってるんだなと。踊ることは普通のことなんだなって。それを見てると、大人になってからでも出来る、私も踊れるっていう気持ちになって、その時に留学しようって決めたんです。
―その時点でもう留学を決意したんですか !
大西 日本で習えそうな踊りには思えなかったし、当時もっとマイナーだったし、バリに来ても長く住まないと習えないだろうと思って。それで日本に帰って、京都駅まで母が車で迎えに来てくれたんですけど、車の中で母に「私バリに留学する」ってもうその時に言ってました(笑)
―なるほど、その一回の旅行でまさに一目惚って感じだったんですね。じゃあその後、実際に習い始めるのは、やっぱりバリに行くっていうことになるんですか?
大西 日本に帰って来てから人の紹介で、大阪にインドネシア舞踊の教室がひとつだけあるのを教えてもらって、半年くらい通いました。ちょうどそれくらい経ったときに大学の休み期間に入ったので、バリに一ヶ月習いに行って。そのあとは大阪の教室には通わなくなりました。半年ごとに一ヶ月とか二ヶ月バリで習って、日本帰ってきて自分で練習するっていうのを繰り返してました。
―向こうで習うってことは日本語で教えてもらえるわけじゃないですよね。踊りを教わるってことは基本的に「見る」ことだと思うけど、コミュニケーションでは不自由しなかったですか?
大西 インドネシア語も特に勉強せずに行ったんですけど、言葉がわからなくても、例えば「もっと低くなれ」って言われた時にキョトンとしてたら、体をぐって下に押されて、それで「ああ、低くなれって言われたんや」と分かる。だから踊りを習う分には不自由しなかったですね。基本やっぱり「見て真似る」っていうことなので。
―なるほど。一番最初に習うこと、基本的な姿勢なんかはバリ舞踊だとどういう感じになるんですか?
大西 基本の型にアガム(Ngagem)というポーズがあって、これが最初に覚える型ではあります。バリ舞踊には女性舞踊、中性舞踊、男性舞踊と3つの型があるんですけど、それぞれ演目によって少しずつ変わるところもあって、ひとつの演目を踊るにあたっての基本的なアガムを習います。

―かなりキープするのが難しいかたちですよね、姿勢的に。これを崩さずにずっと踊るんですか。特に肩が上がってて大変そうですが、慣れてくるものですか?
大西 最初はどこの筋肉を使っているとかわからないから、ほんと始めたばかりのときは四十肩みたいになったり肩関節がおかしくなったりしました。やってるうちに腹筋とか背筋とか、そういうところで支えてるっていうのが、頭でなく体でわかってきて、教えるくらいになった頃に、どこを使ってとか言語化できるようになってきた感じです。
―最初は型って他人というか、自分の体の外側にあるものじゃないですか。それが徐々に自分の体に近づいてきたような感覚が得られたのって、踊りはじめてどれくらい経ってからでしたか?踊りとの距離が変わって来た段階というか。
大西 それはだいぶ経ってからですね。1993年から始めて、96年から99年まで留学して。それから日本に帰ってきて最初の頃はまだ遠かった気がします。例えば本番で普段の練習と違う緊張状態にある時に、肘とか手とかが、自分の体からどれくらい離れてるのか、そもそもどこにあるのか感じられていなかったなと。もちろん今でも明確じゃないですけど…。10年くらいはかかってると思います。今だとスマホとかで簡単に動画が撮れるけど、まだ当時ビデオがそんなに手軽じゃなかったですし、ビデオ撮って客観的に把握する、みたいなこともしてなかったんです。
―10年を超えたあたりでなんとなく自分のかたちが把握できるようになってきたという感じなんですね。
大西 そうですね。でもそれにも段階が常にあって、その当時わかっていたことと、今わかっている感覚は違いますし、一ヶ月後もうちょっとわかってるかも知れないし、今わかってると思ったことがやっぱり違うかもしれないですし。今もずっと気付くことがあるというか。
―おもしろいですね。なんていうか型を踊るって方法が固定したものじゃない、どう言えばいいんでしょうね、はっきりしているんだけど、固定化はしてない。
大西 確かに固定したものではないですよね。気付くことが変わっていきます。常に気になるところや発見があるし、例えば型の背中側、もっと背中側をこういうふうに使ったら胸とかお腹の方が楽になるんやってことに去年の秋くらいにやっと(笑)気付いて、長年お腹の方に、ちょっと思い込んでたなぁという発見があったんですけど、それもまたそうじゃなかったと変わって行くかも知れないですし。
―同じ踊りを何回も踊っていても、ここはもっと力が抜けたとか、他のところで支えてたんだなみたいなことがわかってくると、踊り自体が変わってくるんでしょうね。ずっと同じ型と付き合ってても飽きないっていうか。
大西 飽きないですね。なかなか理想に届かないし、理想も変わって行きますし。自分も年をとって変わらざるを得ない部分もある。あと音楽もあるものだから、間(ま)の取り方とかね、ここでもうちょっと溜めといて、そこまで行ってからもうちょっと早くとか、ここもっと抜いてる方がかえっていいかもとか、呼吸も含めて。
―音の取り方と呼吸も含めて踊りができていくってことですよね、それも型に関わってくるという。大西さんがバリ舞踊を始める前と後で考え方とか価値観が変わったと思うことってありますか?
大西 バリ舞踊始めたのが二十歳とかなので、年齢によるところもあるかも知れないですけど、例えば伝統舞踊って同じ踊りをいろんな人が踊ってたり、人と共有してるじゃないですか。昔の人が踊ってたものを先生が教えてくれて、私の先生はこう言われてたのよとか、そうやって伝えていかれているものに自分も加わってる、というような感覚はバリ舞踊を始めてからですね。
撮影:逸見幸生 撮影 : 秦晴夫
バリ舞踊より前は特に他の踊りはやってなかったんですか?
大西 やってなかったです。ただ踊りへの憧れは小さい頃からあって、バレエの漫画を読むのが好きとか。あと幼稚園の頃にね、3人組で仲良かった友達がいて、ひとりの女の子がバレエを習ってたんです。その子のお母さんが私ともうひとりの子の親にバレエを習わせてあげたらって言って、しばらく習いに行かせてもらったんですよ。それがすごく楽しかったのは覚えてるんですけど、でもある日、母に「今日はお休みよ」って言われて、それでまた次の時も「今日も休みよ」って言われて。結局辞めさせられてたみたいで、お月謝が高いから(笑)
―そう聞きますけどね(笑)そうかぁ。
大西 楽しかったし、いいなぁっていう習ってる人への憧れはずっとあったように思います。そんな子供の頃を過ぎたあとも、当時バレエとか日舞とかジャズダンスとか、それくらいしかダンスの種類は知らなかったし、子供の頃からしか習えないものと思っていたので、もう高校生くらいには諦めてたような。でも憧れはずっとありました。
―最初に大西さんがバリに行って練習風景を見て、踊りを習う環境の生活に近い空気感みたいなものも含めて、合うものがあったのかなと、お話を聞きながら思いました。
大西 はい、もし最初の出会いが日本に公演で来てるバリ舞踊団をどこかのホールで見たとかだったら、私にはとてもとても…って思ってたような気がします。バリの環境に行ったから「踊れるよ」「踊りごときなんだ」みたいな、踊ってない人も特に踊る人を「すごーい」って目で見てないような「普通だよ」っていう感じがあって、踊りに踏み込みやすくなったのはありますね。
―バリだと踊りも生活と地続きっていう感じなんですね。教室に行ってレッスンっていうのじゃなくて。バリ舞踊は年齢を重ねていっても長く続けられる踊りなんでしょうか。身体的な限界とか引退という考え方はありますか?
大西 私の先生は膝が悪くなってこの2年くらいは少し踊りにくくなって来られてるんですけど、その先生で77歳。だからずっと踊り続けている人は踊れますが、踊り方はやっぱり変えていかないといけないですね。男性舞踊に仮面の踊りがあって、お寺の奉納でひとりでいくつも仮面を取り替えて踊る演目なんですけど、喋りもあって。そういう演目は知識と経験のある年配の方が素晴らしいです。動き自体はどんどん減らして、ほとんど動かないままキャラクターを表現するように踊って、年齢によって年齢に合った踊り方をされます。
ただ、バリの女性舞踊は若い人が踊るものとして作られているような気がするんです。作られてるというか、昔は結婚したらもう踊らないのが普通で、指導して子供達に踊る機会を与えるとか、だったんですよね。今は観光地とかだと結婚して子供を産んでも踊られている方はいるし、舞踊劇だと熟練の方たちが役者をされてます。でも舞踊演目を見ると、若い人が踊る前提で作られてるなって思うものが多い気がします。
―大西さんがバリ舞踊を教えられる時、人に型を伝えていく感じというのか、つまり余所から来たものを受け継いで別の人に伝えるっていう流れの中に居るって興味深いなと思います。それも異国の型を繋いでるっていうのは。
大西 そうですね。思い返すと自分が習ってるだけの時はただ感覚的に踊ってたなと思います。いちいち言語化する必要もないですし、見て真似て見て真似てするだけで。でも日本に帰ってから教え始めてみると、バリ舞踊を見たことのない方も習いに来てくださる。そうなると全部言語化できないといけないですし、特に大人だと見て真似て、というだけでは難しい場合も多いんですね。恥ずかしいとか、気持ちの戸惑いが大人の方がどうしても強かったりして。
言語化して一個一個細かく解明しながら教えて、改めて自分もわかることがすごくあったりします。過去の自分と同じところでつまずいていたら、「あー、それわかる!」ってなるし、逆に自分はすんなり行けたところが行けないと、「なんでそうなるんだろう?」って、その人のやり方を真似して「ここに余計な力がかかってるから、もうちょっとこっちにこう」とか、それは勉強になります。もう一度稽古に入るというか、入れるというか。
―他人の体がつまずいているところを一緒につまずいて解析するっていうのはおもしろい(笑)それも型を介してできることのひとつですね。基準があるからそれを探れる訳で。それがないと、人の体はみんな違うからそういうもんだってことなんだけど。大西さんはバリ舞踊をやっていて他の踊りをやってみたいと思ったことはありますか?
大西 いっぱいあります。ワークショップは色々受けたことがありますし、他の踊りを体験するのは大好きで。コンテンポラリーダンスも好きで、よく見てました。
―型の踊りをベースにやっている人から見ると、コンテンポラリーダンスってどういうところがおもしろいですか?
大西 例えば、プツプツ切りますよね。あえてひと続きにしないとか、繋げない。体も中心をひとつに固定しないで、変化し続ける。型のある踊りは、やはりたくさんの身体で共有しやすく出来ていると思います、自然の摂理に沿った動きや体の使い方で、バリ舞踊では一曲の作りも古いものほど無理のない流れになっているように思います。呼吸もひと続きに流れていく感じです。
コンテンポラリーダンスは、違和感をわざと入れて、それが切る、とか、そうゆうことになるのでしょうか?必ず無音のシーンがあったり、あえて日常的な動きを入れて、寝転がる、倒れるとかも。あと、激しく踊ってるときに突然音が切れてハーハーハーって呼吸音が聞こえるのが、すごいコンテンポラリーダンスだなぁって。バリ舞踊の場合は生物としての呼吸音は聞こえないほうがいいですし、最初から最後まで呼吸は途切れないです。ハーハーもできない(笑)、踊りで呼吸を見せます。
生き物としてのナマの呼吸を出していいっていうのは最初はすごく新鮮に感じましたね。コンテンポラリーダンスをしている人たちと踊りについて話すのも楽しかったです。
―そうですね。日常の体に注目して踊りを立ち上げないことには、やっぱり型がないってことは踊り方がない訳だから、踊りをどこから探すかってなると、まず普段過ごしてるこの体の時間からしかないってことがあった。そこからどう成熟していくか。それで皆困ったり考えたりしてるのがずっと続いている状況かも知れない。でも私も入口がコンテンポラリーダンスで、即興ベースの型がないところから踊りには入ったんです。だからこそ型について考えたいというか、型がないことを考えたいと思った訳なんです。
踊る方法を探し続けるということはできるかも知れないけれど、一生付き合っていけるような型としてインストールするという感覚とは違う。作品ごとに作っては捨て、みたいなとこがあるんです。また次また次と。その反作用なのか、ずっと付き合っていけるものも欲しいと切実に思ったんです。それでジャワ舞踊を始めて3年経ちました。
大西 もう3年になるんですね。
―本当になっかなか覚えられなくて。ジャワ舞踊ってフワーッとしているので、最初の1年はただフワーッとしたまま過ぎて行きました。徐々に動きの展開のセオリーがわかってきて入りやすくなったかな。今やっと2曲踊れるようになったけど、覚えて終わりじゃなくてそこからがもう無限なんですね。
大西 そうですよね、次々と気づくことが出てきますよね。終わらないですね。

大西由希子(おおにし ゆきこ)
バリ舞踊家。
1993年、初めて訪れたバリ島でバリの舞踊に魅せられ、学び始める。1996年~1999年、インドネシア国立デンパサール芸術大学舞踊科に留学。在学中、ニ・クトゥットゥ・アリニ氏他、バリ島各地の名士に師事。
2001年~2012年、京都市にてバリ舞踊教室を主宰。自主企画の公演や他ジャンルのアーティストとのコラボレーションなども行う。
2015年より東京在住。
ライフワークとして「バリ舞踊の根っこの探求」を独自に展開している。
撮影 : 秦晴夫