Katastroke interview7

韓国舞踊 金一志

2020/7/29 聞き手:増田美佳

「Katastroke」photo:金サジ

韓国舞踊
韓国の伝統舞踊は、宮中の宴で演じられた「宮中舞踊」と、民間に伝わった「民俗舞踊」の2つの系統に大別される。宮中舞踊は王権政治が確立された三国時代以降、饗宴や国賓のための宴会の席で行われてきた。その大部分は王室の尊厳や威厳を称賛する内容で、芸術的な面を強調したのが特徴的。上品かつ優雅に踊らなければならず、頭の装飾や衣装には宮中建築に通じる極彩色が多く使われる。静の中に動のエネルギーが凝縮され、ゆったりとした舞踊の中にも力強さが見られる。民俗舞踊は、庶民の生活と感情をいきいきと表現する一方、社会を批判する内容を扱ったものも多いことも特徴。庶民たちの生活感情に根差しているため、娯楽の要素が強く、ステップを踏みたくなるようなリズミカルなものが多くある。ひとりで踊る舞の他に、その場にいる人々が一緒に参加できるものもある。

−まず一志さんが韓国舞踊を始められたきっかけについて聞かせていただけますか。

 一志 韓国の1970〜80年代というのは、国をあげて国民生活の中で伝統文化を守ろう、発展させようという運動が盛んで、舞踊や音楽を奨励する時代だったんです。私が小学校1年生の時、すごく活発な子供だったんですけれど、体育の時間にみんなでリズム体操みたいなことをやったんです。その後に校内放送で職員室に呼ばれて行ったら「今日からあなた舞踊部ね」と言われたんです。何をするのかもわからないまま、各学年から呼ばれた人たちが12人くらい集まって、にわかに韓国舞踊部ができたんです。当時学校対抗のコンクールが全国的に盛んで、年に何度か合唱や舞踊コンクールが常にある状態でした。作品を踊れるように練習して出場するんですね。賞をもらったら文部省から奨励をしてもらえるとか、そんな動きの中で自分の意思とは関係なく舞踊部の一員になっていたわけです。つまり気が付いたら踊っていたんです 笑。

−笑。ということは始めたのは年齢的には7歳くらいで、きっかけは自分の意思の外からやってきたという感じだったんですね。でもそこから辞めずに続けていくくらいおもしろさを感じられていたということですか。

一志 自分が踊りたいと思って踊ったわけではなかったけど、常に生活の中に踊りがあったんです。朝は授業が9時からであれば、8時前には行って練習をして、授業終わってまた練習、というのがずっとあったんですね。そんな毎日を送っていたんですが、私が17歳の時に日本に住むことになりました。私は韓国で育ちましたが母は在日で、晩年は日本で暮らしたいという思いがあって。その時に踊りを辞めるかなと、もうやらないんだと思ったんです。踊れないのが辛いとかそういうこともなく、日本に来て2〜3年踊らない時期があって。でもある日、韓国の国立舞踊団が京都会館に公演に来たのを見たんですよ。見た時に自分でも知らないうちに涙がわーっと出て、踊りたいって初めて思ったんです。それから韓国舞踊が日本でもできないかと思ってものすごく探しました。当時京都にはなかったですしね。

−そうだったんですね。いつ頃ですか。

一志  85年頃ですね。大阪に探して行ったんですね。するとやはり、自分がずっと踊ってきた踊りとこちらで教えていた踊りがちょっと違っていたんですよ。自分ではなんかちょっと違うなと思いながら。そのうちに韓国の学校で踊っていた頃の先輩が留学で神戸の方に来ることになって、その先輩と最初は同好会のように集まって踊るようになってという流れです。

−一志さんが韓国で習っていた踊りと日本で踊られていたものとは型がちょっと違うとか、そういう違いですか。

金一志  韓国舞踊のエッセンスというか、曖昧な言い方になってしまいますが、グルーヴ感、そういうものが現代舞踊に近いというか、韓国舞踊とはちょっとというふうに思ったんです。でも今考えれば、また時代の話になるんですけど、70〜80年代の在日というのは、あまり韓国の伝統文化、踊りやリズムを本格的に学んだ人がいなかったんです。そうするとちょっと経験のある人がこうであろうと手探りでやっていって、でももっと勉強したいとなってその後皆韓国に行くんですよ。その人たちが上手くなって日本に帰って来られて今の在日の舞踊界があるんです。私は小さい頃から訳わからずにやってきたけれど韓国の文化に接してきた者ではあって。でも当時日本では本当に欲しくて学んでいたけれど環境がなかったという、そのギャップをその時はわからずに漠然と「違う」としか思っていなかった。手探りで祖国のものを追い求められていた時代があったんです。

−とても興味深いエピソードです。一志さんは現在、ご自分の舞踊団をお持ちですが、それを立ち上げるのはどういう経緯だったんでしょうか。

金一志  最初は自分の国に対する恋しさやさみしさ、舞踊に対するそんな気持ちもあったりして、踊りを新たに始めるんですけど、踊りをしていると、お祭りやイベントなんかがあった時に声がかかるんですよね、ちょっと出てくれないかと。そういう機会に何度か公演をしているメンバーで、京都のある中学校に公演に行くことがありました。その頃京都では、日本の中でも国際文化交流、人権問題に積極的に取り組んでいた時代でそのための予算もしっかり付いていた。人権学習やお話し、文化祭に出るとか、そういう機会がよくあったんです。

その中で二つの出来事がありました。一つはいろんな趣向を凝らして子供達に韓国の文化を伝えようとする取り組みをしていて、例えば踊りを見せるだけではなくてね、子供達に簡単な踊りを教えてあげて舞台で発表してもらったり、韓国の衣装をきれいに着せてあげて写真を撮ったりとか、そういう取り組みをしていたんです。でもある学校で子供にチマチョゴリを着せるのはだめと言われたんです。親が嫌がるからと。すごくショックでした。でもそのかわり先生が着ますって言ってくれて、先生たちに何人か着せて、それはそれですごく盛り上がったからよかったんですけどね。もう一つはある日、授業を受けた中学3年生の生徒から手紙が来て、自分は韓国人なんだけど、韓国人であることをずっと表明しづらかったと。だから友達にも内緒にしていたけれど、高校に行く時は本名で名乗ることにすると書いてありました。その頃本名宣言というか、私は韓国人やねんと名乗ることをけっこう皆していた過渡期でもあったんです。その手紙をもらった時に、ああ、私は自分が踊りたいと思って好きに踊ったけれど、それがある人にとっては人生を変える、生き方を変えるような大きい出来事なんだと。そういうところに私はいるんだってことに気がつくんです。

その頃四条大宮に郁文中学校(平成19年閉校)で夜間学校をやっていて、中国、韓国、朝鮮のおじいちゃんおばあちゃんたち、学べなかった人たちが学びにくるところでした。そこの教頭だった若林先生が私にあるビデオを1本持って来て、この踊りを学芸会の時に自分で踊れるようになって生徒さんたちに見せたいんやと言ったんです。ビデオに映っていたのは、私が小さい時から憧れていた韓国の伝統舞踊の先生だったんです。その踊りを私は当時踊れなかったんですけど、ちょうどさっき話した手紙をもらったような時期だったのですごく胸を打つものがあって、どうにかしてこれを覚えて若林先生に伝えてあげたいと思ったんです。それですぐ韓国の電話番号を調べる114に電話して、先生の舞踊学院の番号を教えてもらい、直接かけたんです。そしたらたまたま先生が出られて、私習いたいんですけどと言ったらどうぞどうぞと。それで韓国に飛んで行くんです。先生は当時雲の上のような存在で、直接習いたいなんて誰も考えられないくらいの方だったんですね。それも後から考えたらすごいことしちゃったんやけど、若林先生のおかげで 笑。

−笑。そうですよね。

金一志  そこから何かに取り憑かれたように韓国に通うんです。先生に弟子入りをして一から韓国の伝統舞を踊ること、それらを教えることにとても大きな責任を感じたので。初心に帰って韓国舞踊を習う気持ちでやりました。それが20代前半でした。でも若林先生は癌になってその踊りを踊れずに亡くなるんですよ。代わりに私が踊りました。それが男性舞踊の閑良舞(ハンリャンム)という踊りです。習った先生が韓国ではその踊りの第一人者でした。女性が、まして外国から習いに行ったのは初めてだったので先生もすごく思い入れを持って教えてくださって。
韓国舞踊をやりたいと来る人は自分のアイデンティティを求めてくる人が多かったんです。今は韓流ブームとか、いい意味で軽やかになりましたけど、前はすごくそこに重みがありましたね。だから私もちゃんとやらなければという責任があった。そういう経緯です。

閑良舞(ハンリャンム)

−韓国舞踊を習う人に一番最初に教えることはなんですか。

一志  韓国舞踊の良さって呼吸なんですね。何をするにも呼吸が伴わないと、それこそ普通のダンスとあまり変わらなくなってしまうので、丹田呼吸をしっかりすることは絶対に伝えています。それによって足腰も強くなるし、優雅に動けるようになります。

−練習として呼吸を単独でする方法というのはあるんですか。

金一志  はい。息を吸いながら体を上に持ち上げて吐きながら沈んでいく、というのをやります。終戦前後に分けるとすれば、終戦後に普及したのが新舞踊、その前に古くから各地域や村に伝わって来たものが伝統舞踊。その伝統舞踊の中にも宮廷舞踊と宗教儀式舞踊、民俗舞踊と分かれていきます。伝統舞踊は呼吸をすごく大事にする。新舞踊はダイナミック。言ったら今の新舞踊はバレエに近い形でものすごくテクニカルでアクロバティックなところもあります。これはこれで別のジャンルという感じです。

最初に話した私が小学校から訳わからずに始めたのは新舞踊なんです。戦後、華やかに明るく力強くというのがモチーフになっていて、曲も創作のためのものを使って動きのあるものをやっていました。トレーニングのためにバレエにも通っていました。

だからもう一度韓国舞踊とは何ぞやを勉強し直しましたね。それは伝統舞踊の方です。私の場合はそういう流れでしたから、伝統を踊り始めてから10年間は一切創作はしなかったです。体に伝統を染み込ませるために創作をしませんでした。10年経った時に初めて創作を作って、そこから節目の大きな公演の時は創作を入れるようにしています。なぜかというと、伝統も素晴らしいけれども一般の人たちに舞踊をもっと近付けたい、わかりやすくて見やすい創作作品を手がけようと思ったんです。だから昨年の25周年の時は、題材が源氏物語という無謀なことをしていたりね 笑。

−なるほど。韓国舞踊では喜怒哀楽、感情の表現をどのように扱いますか。

一志  私はレッスンの時よく言うんですけれど、韓国ドラマを見ると感情表現が激しいとよく言うんですよ皆さん。怒ったり、喜んだり。だけど伝統に接してみると、すごく奥ゆかしいんですよ。さっき呼吸の話をしたけれど、それと同じくらい大切なのが、ジョンジュンドン(静中動)と言って静の中に動があって、動の中に静がある。これがすごく大事なんですね。呼吸でずっと動きを繋げていってるんですけど、その中は激しい動きがあるんです。でもそれは見せない。ぐっと抑える。ジョンジュンドン ドンジュンジョン。韓国舞踊としてはそこが感情の表現に当たりますね。例えば韓国を代表する民族舞踊で無形文化財に指定されているものが、民俗舞踊作品でいうと3作品しかないんです。これらはすべて能みたいな感じです。ほぼ動きが無いように見えて。韓国舞踊の魅力を見るにはそれが一番かなと。

−踊りに対する考え方が変わってきたという過程は伺いながらとても感じました。年齢を重ねる中で一志さんご自身の体と踊りの関係の変化を感じられることはありますか。

一志  身体に対する興味は私の場合後から気付くことが多くて、今毎日のようにホットヨガに行っていますが、その中でもああ身体ってこうやったんや、と思うことはあります。私は性格が前向きで能天気なところがあってよく太るんです。それで公演の前に絞るんです。若い時は5、6キロは自由自在にできましたね 笑。今回もコロナ太りというのが4キロくらい。それでまあヨガをしながら締めたりしてるんですけど。太った時と痩せた時の体の動きはまったく違いますし、年齢が50半ばになってきて、やっぱり関節とか、前とは違うなということはありますよね。痛くなかったところが痛くなったりとか。そういうのを保護するためにはどう動いたらいいかとか、そういうこともすごく考えます。その分力で踊らない、余計な力を抜いて呼吸で動くとやりやすいとか、それはすごく思いますね。

−韓国舞踊は基本的に幾つになっても踊り続けられるものですか。

一志  はい。90まで踊っておられた人間国宝の先生もいらっしゃいます。伝統の素晴らしさはそこかなと思いますね。

−やっぱりどの伝統舞踊でもそうでした。若さだけに価値を置かないというか、年齢による限界を作らずに続けていけるというところはとても魅力的に思います。最後に一志さんの今後の目標を聞かせていただけますか。

金一志  私は自分が踊るよりも、持っているものを相手に伝えて、それを踊ってもらったり、指導者になってもらったり、そうしていきたい思いの方が強いんですね。なので後輩育成ですね。例えば、講師を輩出して様々な場所で韓国舞踊を教えられたりとか、そういう方をたくさん作って行きたいし、今回Katastrokeでやっているような新しい試み、おもしろい取り組み、そういうことをしていきたいなと思っています。

金一志(キム イルチ)
1965年韓国生まれ。韓国舞踊家。幼少より韓国古典舞踊を始める。1986年来日、京都にて金一志古典舞踊学院を開校。以来日本国内のみならず、韓国でも多数の公演活動をこなしし、次世代の指導・育成にも力を入れている。2006年 大韓民国国楽コンクールにて金賞受賞。2010年には(財)京都市芸術文化協会に外国人の伝統芸能として初の会員認定を受ける。2017年全国総合コンクールにて大統領賞受賞。現在、大韓民国国家無形文化財第39号處容舞 履修者/特定非営利活動法人 金一志韓国伝統芸術院 院長/(社)韓国伝統舞研究会 関西支部支部長

「Katastroke」photo:金サジ