Katastroke interview8

日本舞踊 若柳吉寿扇

2020/7/27 聞き手 増田美佳

「Katastroke」photo:金サジ

日本舞踊 若柳流
手振りの多いことが特徴で品のある舞踊と評される。花柳界(花街)から活動の場を広げ発展した流派で、振りの繊細さと全体の品位が大切にされている。1895年に若柳吉松(後の初代若柳壽童)により創流され、柳橋をはじめ花街に一大勢力を築き、壽童の後を継いだ初代若柳吉蔵によって日本全国に勢力を広め、今日では日本舞踊における5大流派のひとつとして数えられる。

−まず吉寿扇さんが日本舞踊を始められたきっかけについてお話しいただけますか

吉寿扇 はい。小さい時から私は音というものに敏感だったらしいのですが、お稽古を始めた経緯というのは、物心ついた頃、どんなおもちゃを与えても泣き止まなかった私が、お扇子を見せると泣き止んだ、お扇子を持たせるとにこにこ笑ったということがあったそうです。父や母たちがこの子は踊りが好きなんじゃないかということで、じゃあ踊りを習わせようかということになりました。本当は日本舞踊の場合、6歳の6月6日から始めるというのが習わしのような形であったんですけれど、6歳まで待たせるのはかわいそうだからと4歳のお誕生日を迎えたのをきっかけに京都の日本舞踊学校に入門しました。

−4歳の時に習い始めた頃のことは覚えていらっしゃいますか

吉寿扇  所々ですけれども、私なんかは4歳の時はまだ右と左というのがなかなかわからなくて、赤い足袋と白い足袋を履き、それでお師匠さんが、はい白の足袋を出しなさいと言われると白の方で、はい赤よ、と言われる赤を出す、そういうようなお稽古の始まりでしたね。

−そうやって左右で赤と白の足袋を使うのは一般的な方法なんですか

吉寿扇  それはどうでしょうね、お師匠さんの提案かなと思います。

−そのように始められてその後も吉寿扇さんは踊りを続けられていったんですね

吉寿扇  幼稚園、小、中、高と続けて。大学へ行くか芸能界へ進むかという選択をさせられまして、私の場合は芸能界に入りたいという思いがあって、それでOSK(大阪松竹歌劇団)の方に入学しました。そこで2年間みっちりと厳しいお稽古を色々いたしました。声楽、演劇、ダンス、タップとかあらゆるものを。邦楽もね、お三味線、お琴、鼓とか全部。モノにはなっておりませんけれど 笑。まあ一応一通りのことはさせてもらったということでやってきましたね。

ところが私は子供の頃から体があまり強くなかったんです。舞台で何回か倒れたこともあったりして。ああいうところは「臓」のつく病気を持っているとだめなんですよね。心臓、腎臓、肝臓とか。私の場合は一応狭心症という病名がついたものですから、舞台とか踊りとか激しい場所では無理ではないかと、最終的には父が判断したのですが、OSKを退団して、今度は松竹の芦屋雁之助さんという方にスカウトしていただいて、そこに入りました。松竹喜劇座と言いますけれども、女の人はあまり喜劇をやらないんです。リアルなお芝居なんです。座長の雁之助さん三兄弟の方は喜劇をなさるんですけれど、我々はシリアスなお芝居でということでやっていましたね。そこでなんだかんだしているうちに、東京の東宝の重役だった方に本格的にお芝居の勉強をしないかと言われて、やっぱり東京の方が色々幅も広いしということで東京へ進出することになったんです。

東京へ行ってから長谷川一夫先生という大スターの方ですけれど、その方がおやりになっている東宝歌舞伎というのがありまして、そこでお勉強させていただくということでずっと舞台に出させていただいていました。長谷川先生の場合は必ず二部に日本舞踊ショーをおやりになりますからね。そちらの方でも活躍させていただいて随分巡業について行かせていただきましたね。東京、名古屋、大阪、九州と…。

−全国のいろんな劇場に行って、そこで1ヶ月とか2ヶ月滞在するような感じですか。しばらく滞在先の町で暮らすという。

吉寿扇  そうですね、だいたい短くて1ヶ月コースです。

−そういう巡業の生活はどれくらいなさっていたんですか。

吉寿扇  東京に行ったのが22、3の時ですから、すぐにそのお仕事をさせてもらうようになって、幾つまでいたんですかね。約20年くらいです。

−20年…、ということは吉寿扇さんは20代からの20年間は舞台公演をしている生活の方が長かったんですか。

吉寿扇  そうです。でも皆さんテレビとか映画とかいろんなものにお出になりますし、私も映画やテレビに何本か出演させていただいたこともありました。けれど、あくまでも舞台女優ということで、舞台を主にやらせていただいていました。だから巡業が多かったですね。

−それはご自身が映画とかよりも舞台の方がいいと思われたんですか。

吉寿扇  もう絶対に。

−どういうところが?

吉寿扇  やっぱりそれは生のお客様の拍手とか、そういうものに魅せられますね、私は。映画はワンシーンカットになるので部分の台詞を覚えたら終わりだけれど、舞台は幕開いたら終わるまでだから、大変ですけどね。絶対的に私は舞台の方に魅力を感じていました。

−なるほど。そういう感じで吉寿扇さんは20年間巡業公演をなさって、その後は京都の方に戻ってこられたんですか。

吉寿扇  はい。戻ってきました。京都に戻ってからはその道はもう引退という形で。ただし日本舞踊だけはやっぱり辞められない、捨てられないということでまたやり始めたんですけど。もちろん東京にいる間も日本舞踊だけはずっと続けてはおりましたけどね。

−巡業をしながら日舞のお稽古というのはどうやって継続するんですか。

吉寿扇  あのね、一つの公演がありますね。その公演の中日くらいから次の公演のお稽古が始まるんです。

−…公演中にですか。

吉寿扇 昼と夜の公演の間に2時間くらい休憩があります。その間に次の作品のお稽古をするんです。台本をいただいて。ですから今現在やっているお芝居とさっきまで台本を見ていたお芝居と台詞がだぶってきちゃったり、こんがらがってくるんです 笑。でもそういうやり方ですね。ひとつの公演が終わったらだいたい3日くらいお休みをいただいて。でも忙しい時はその間に今度は移動するわけです。着いたら明くる日からもう立ち稽古が始まる。

−じゃあ巡業をしているあいだは本番もあれば次の稽古もあって、というのをずっとやっているということですよね。私が想像しているより相当ハードな生活をされていたんだということが今わかりました…

吉寿扇  ハードでした。だから健康というものに対してすごく敏感でした。倒れたらすごく迷惑がかかるわけですから、まず体を維持することが大事でしたね。

「Katastroke」photo:金サジ

−全員で何人くらいで移動するんですか。

吉寿扇  だいたい舞台に立つ役者さんだけでも50人近くですからね。それにスタッフ、大道具さん、かつら屋さん、衣装屋さん、メイクさんとか…だからすごい移動ですよ。

−想像以上に大所帯です…。電車移動ですか。

吉寿扇  看板俳優さんたちはご自分の車で動かれますけれど、ほとんどがバスか新幹線で移動します。

−皆さんそれぞれの荷物を持って各地へ。その間の生活というのは劇場に泊まれるような場所があるんですか。

吉寿扇  ホテルを取ってくださるんですよ。でも必死で台詞を覚えなきゃいけない、踊りも覚えなきゃいけないからホテルに帰ってられないんですよ。そういう時は楽屋で寝る 笑.。まあ、でもちゃんとホテルに帰って寝ることの方が多かったですよ。

−きちんと休まないと保たないですよね。でもそれくらいほとんど旅だったら家にほとんど帰れないですよね。

吉寿扇  そうですね。空家賃払ってるようなものでした。だからお正月も何もなかったですよね。そういう時ほどいい舞台を作られますから。お正月遊んでる芸人じゃあしょうがないって言われたくらいです。そんな時期にお仕事が無いようではいけないということでね。

−でもそれだけ舞台漬けの生活から身を引くということは、その後の生活とかなりの差があるんじゃないかと思うんですけど、吉寿扇さん自身はスッと戻っていけたんですか。

吉寿扇  そうですね、やっぱりスッとは戻れませんよね。そういうお仕事をしていましたから、自炊することもないんですよね。だからお料理できないんです私。まるっきり出来ない人です。結婚したときも主人がほとんど作ってくれて。

−お料理が得意な方だったんですね。

吉寿扇  そうです。ですからそういう意味で普通の生活に戻るには時間がかかりましたね。今は踊りだけですから、けっこうお料理も覚えたりしてますけどね。

−なるほど。お話を聞いているだけなのに大所帯で旅周りの生活をされていた頃の熱量が伝わってくるようです。

吉寿扇  本当に、上も下もないというか皆さん家族のようなかたちでね。

−今はご自分の活動をされながら指導をされているということで。今教えていらっしゃる生徒さんたちは年齢層も幅広いんですか。

吉寿扇  そうなんです。4歳くらいの方から一番上が85歳ですかね。でも80でも若いですよ。

−日本舞踊のお稽古というのは初心者にどういうことから教えますか。

吉寿扇  まずご挨拶から。お扇子を前に置いてご挨拶から始めます。終わったら正座をしてありがとうございましたと。踊りを教える時は指導者は必ず左側に立ちます。それでまず歩き方からね。踊りの場合は摺り足で歩きますから。バレエの場合はつま先ですけれど、擦って歩くということ。それから歩幅。だいたい自分の足の幅1歩。決して大股に歩かないということ。女の場合は内股に中へ中へ少しかけて、男は外へ。それからお扇子の持ち方。そういうものから始めますね。

−鏡を使ったりはあまりしないですか。

吉寿扇  いえ、最近はそうでもないです。我々の小さい時は鏡なんてそんなにありませんでしたけど、あっても小さいものでした。今はだいたいどこの稽古場でも壁一面に大きいものを貼って、鏡を見ながらということになります。教える方にも教える忍耐が必要でこれは好きでないとやれないです。

私が習っていた頃のお稽古というのは今のお師匠さんから想像できないくらい厳しかったですよ。子供だったら怒られたり分からなくて泣いたりしますよね。そしたらもうぱっとお稽古をお止めになるんです。じゃあ今日はもうここまでですよって言われて。それから真夏なんかは汗だくだくになります。あの頃はまだクーラーもありません。先生だけが扇風機におあたりになっているけれど。舞台に汗がいっぱい落ちます。自分が暑いから先にハンカチで顔を拭きますね。そしたら自分の顔を拭く前に舞台を拭きなさいって言われる。そういう非常に厳しいことろがありました。今そんなこと言ったら大変ですけど。

−…なるほど。あまり厳しくし過ぎてもついて来れなくなるれど、優しくやり過ぎてもなかなか型の中に入っていけないじゃないですか。そこはやっぱりうまくお稽古に集中できるような工夫をなさっているんですか。

吉寿扇  そうですね。やっぱり皆さんそれぞれ性格がありますからね。厳しいお稽古をしても耐える人と一言二言言っただけでめげてしまう人と。やっぱりありますね。だからそこは見ながら、コントロールしながら、甘やかすんじゃなくて、してあげないと。それとただ趣味で習っている人と、高齢になるとリハビリの代わりでお稽古する人もいます。またそうでなくて舞踊家になりたいという人と。それぞれのニーズに合わせてお稽古していますね。それと私が思うのは、教え上手というのと習い上手というのもあって、習い上手というのはまず素直であるということですね。こちらの言ったことを素直に聞いてくれること。

−何事もそうですけど、自分の先入観でああするこうするっていうよりは言われることをちゃんと受け取れないことには習えないですよね。
吉寿扇さんはもう人生のかなり長い間踊ってこられたと思いますが、教える以外にご自身が踊られるというところでこれからトライアルしていきたいことはありますか。

吉寿扇  そうですね、少しずつ、少しずつ新しいものも入れていく。私たちは今まで邦楽の音でチントンシャンと習ってきましたけれど、それを少し海外の音とかね、そういうものを取り入れてあくまでも日本舞踊の古典を崩さないでちょっと新しくしていくとかね。そういうものがやりたいなという希望は持っています。正直歳を重ねて体はもちろん立ち座りが苦しくなってきたり、お膝が痛くなって、というのはありますけど、歳をいったらいったなりの踊り方というのが必ずありますから、死ぬまで踊れるもんだって自分に言い聞かせて、踊ってますね。さあ果たして、どこまでできるかわかりませんけどね。

若柳吉寿扇(わかやぎ きちじゅせん)
4歳より京都日本舞踊学校に入門。12歳で名取、後一級師範取得。大阪松竹歌劇団に入団し演劇、洋舞、タップ、声楽等を学ぶ。卒業後、松竹喜劇座、芦屋雁之助劇団に入団。3年後東京に進出し、東宝歌舞伎を皮切りに、全国津々浦々、芝居と日舞を主に巡業公演に出演。1990年京都に戻り、指導と日舞の公演活動を継続しつつ、台北、台中、台南との年3回の台日親善コンサートなど、他ジャンルの舞踊とのコラボレーションも積極的に行っている。

「Katastoroke」photo:金サジ