Katastroke interview 1

日本舞踊 若柳流 若柳弥天

聞き手 : 増田美佳   収録日2020/2/20

妙満寺 鐘供養 地唄 「鐘ヶ岬」 撮影:中野貴広

日本舞踊 若柳流
手振りの多いことが特徴で品のある舞踊と評される。
花柳界(花街)から活動の場を広げ発展した流派で、振りの繊細さと全体の品位が大切にされている。
1895年に若柳吉松(後の初代若柳壽童)により創流され、柳橋をはじめ花街に一大勢力を築き、壽童の後を継いだ初代若柳吉蔵によって日本全国に勢力を広め、今日では日本舞踊における5大流派のひとつとして数えられる。

―まず弥天さんが日本舞踊を始めるきっかけになったエピソードから伺いたいと思います。

弥天 3歳くらいの時。母が言うには、幼いときから音がかかると体を動かして踊っていたそうです。昔のビデオを見ると、何を言っているのかわからないんですけど自作の歌を歌いながら動いていて、どこでも踊る子だったみたいです。あとテレビでファッションショーを見て真似をしてポーズするみたいなことをやっていたそうで、その様子を見て何か習わせようと。近所に日本舞踊とバレエをやっている教室があって、同じ場所で。見学して、両方やらせてみようということで始めました。

―じゃあ始めた時点でまだ3歳ですか。

弥天 そうですね。日舞の教室は同じくらいの歳の女の子が6人ぐらいいました。先生の後ろについて歩いたり、お扇子持って動きを真似してやってみるのですが、私は先生の後にピタッとついてやってたみたいです。中には途中で寝転んで休憩している子もいました。

―だいたい習いにいきなさいって感じで来てたんですかね。

弥天 最初は親がかわいいからやらせたいっていうので来ている子がほとんどだと思います。私は同時にバレエにも習って、3歳ですと小さ過ぎて本当は入れなかったんですけど、先生がいらっしゃいと言ってくださったので。バーも届かないし、先生に手を引いてもらいながらスキップの輪に入って転んだり、そんな感じでした。でもバレエは確か5歳くらいで辞めたと思います。日舞の方があってるんじゃないのって言う祖母の意見で。続けることになった日本舞踊は4歳のとき初舞台、先斗町の歌舞練場でした。白塗りをしてかつらも着けて、2人で『七夕』と言う作品を踊りました。願い事を書いて短冊を笹に付ける振りがあったんですけど、付けた瞬間に落ちて、一瞬あれってなったけど音楽がかかっているのでそのままにして次の振りをやりました。

―初舞台の様子を覚えてるんですね。

弥天 うっすらと「落ちたっ」て言う記憶はあります。写真とか映像も残っているので。他にも出ていた子が出番の後、かつらが痛くて泣いてたなというのは覚えてます。(笑)人前で何かするのは好きでしたね。

―本番もあまり緊張せず楽しくやれるタイプですか。

弥天 当時はそうですね。観ている人の歓声とかを聞いていたと思います。

―ちなみにバレエ辞めるっていうのは弥天さんとしては別によかったんですか?

弥天 実は私はバレエの方が好きだったんです。なんとなく西洋の音楽の方が好きだったし、見た目にもかっこいいなと思ってました。本当は好きなのに、そういうのが言葉にできない子供だったので、思っていても心で思ってるだけで、流れに乗せられて進んでるような感じだったんです。でも日本舞踊も嫌いというわけじゃなくて普通に楽しいし、先生がよく褒めてくださったから頑張ったのかも知れないです。

―なるほど。つまり最初はこの子に合ってそうだなという習い事から始まったわけですね。でも習い事って、中学に入ると部活が忙しいとか受験とか、辞めるタイミングが何度か訪れるじゃないですか。それでも辞めずに続けることになった経緯というか、モチベーションってどういうところにあったんですか。

弥天 お稽古は一曲覚えて、また新しい曲となっていくと、どんどん興味を持つというか、次は何なのかなとか。あと2年に1回くらいのペースで舞台に出させてもらって、その舞台に出た達成感を知るとまた次もやりたいと思って続けて来たんです。でも小学生のときにコンクールに出まして、そのときは辛かったですね。中学生のときにも出たんですけど、部活もやりながらで疲れて帰ってきてお稽古がめちゃくちゃ厳しくて(笑)泣きながらやる日もあったし正直、内心は辞めたいっていう気持ちもありました。でもそれを母に言ったら「自分で言いなさい」って言われて。それを言えなかったんです、先生に。言えなかったし、先生も次々と課題を与えてくるんですよ。それに対してやりたいっていうのと、何くそ!っていう気持ちと。それで頑張ろうっていう方向になっていたのかな。気付いたらずっと続けていました。友達はどんどん辞めていったんだけど、私はたぶん生活の中で自分の自信のようなものとして日本舞踊がありました。

ひとつ大きな出来事としては、南座で毎年公演されている子供向けの歌舞伎観賞教室というのがあって、小3のときに子役で出演させてもらったんです。南座という大きな舞台で、歌舞伎役者の上村吉弥さんが『お夏狂乱』という作品を踊られ、私は友達と4人でお夏をいじめる里の子の役をさせていただきました。それまでは発表会で1回踊るだけだったのが、11回公演で台詞もあったんです。南座の花道を走って出てきて1発目に台詞を言う役で、男の子の格好なのに声が高いからお客さんがざわざわってなったのが、忘れられなくて、テンションあがりましたね。
あと吉弥さん演じるお夏が、死んでしまった恋人の幻想をずっと追いかける狂女の役なんですが、それを里の子がからかうので怒って追い返す場面があるんです。私がかさを持って防ぎながら叩かれる役で、そのときの吉弥さんのお夏が演技に見えなくて、本当に気持ちが見えて、すごく恐ろしいんだけど、すごいなと思って。踊りなんだけどそこにいる人物の心が伝わって、こんなに素晴らしいんだと。単にお稽古じゃなくて踊りで人物を演じる表現者というか、その姿に憧れたんです。私この人みたいになりたいと、将来の姿というか目標というか、そこにつながったきっかけなのかな。

―憧れる対象が目の前に表れたというのはその後のモチベーションになったでしょうね。しかも側から見てたんじゃなく、同じ舞台上にいたのは大きかったんじゃないでしょうか。

弥天 そうですね、ふるえるというか、痺れるというか、ダイレクトに来た。感動したのかな、そのとき。

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長唄 「まかしょ」

―例えば伝統舞踊だから感じ得た部分とか、記憶に残っていることはありますか?

弥天 正直私は日本の曲にはあまり馴染めなかったんです。やっぱり言葉が聞き取れないので。でも子供の頃はそこまで理解することを求められなかったから、振りと拍子でとっていて、コンクールに出たときに『たけくらべ』という曲をやったんですけど、樋口一葉の小説を題材に舞踊化したものだから、ストーリーがはっきりあるんですよね。そのとき恋とかもまだ全然よくわからないんだけど、人への憧れの気持ちですとか、明日から廓に入ってもうそこからは出られないときの気持ちだとかを先生に説明してもらって。

―すごい(笑)

弥天 そのとき初めて曲の中で何を言ってるんだろうって思った。やっとそれでこういう言葉があったときにこういう動きをしてるってわかるようになる。日本舞踊ってダンスのリズム以外にストーリーがあって、何かの人物を演じてるってことが基本にあるので、言葉も一緒に体に入ってるというか、本来そういうことで、それを形と共に振りと共に心の中で思って表現するっていうことが必要になってくる。言葉は少しずつ聞き取れるようになっていきましたね。
意味というより単純に音と言葉のはまり具合がかっこいいなと思えるところもあるんですよ。そういうところってすぐ聞こえてくるし、覚えられるんです。長唄って引き伸ばしながら歌う特徴があって、そういうところは少しぼやってする、後々、こんなこと言ってたんだみたいな、間違えて覚えていたりとか、大人になって改めて見るとああこういうこと喋ってるんだと後になって理解することもあります。それまでは習字でお手本を真似るようにやっていって、体で覚えていく。後から言葉がやってくるみたいなイメージでしたね、子供の頃は。

―今は一曲を習得していく流れはどういう感じで進んでいくんですか?

弥天 今は昔より言葉もよく聞こえるようになっているので、この台詞やから空見てるんだなとか、煽いでるんだとか、わりとすんなり入ってくるから言葉と音が同時に入ってくる感じですね。あと勘所というか、音のここで首の動きがはまるみたいなポイントが長年の蓄積で、あ、この音でこう来るね、というのがわかってくると、すんなり入っていきます。溜めるというか、きゅっと止まる場所があったり、そういうものが流れとして入ってくる。

―空を眺めるとか、すべての身振りにそういう意味があるんですか?言葉と接続できない動きというのもあるんでしょうか。

弥天 そうですね。音楽全部に歌詞があるわけではないので、所作の動きと拍子の踊りがあって、所々体を楽器的に使うというか、動作が踊りになってるところとそうでないところと混ざっています。先生は教えるときには歌詞を言う場所と口三味線で教える場所があります。踊るときはずっと歌詞を追っているのでも三味線を聞いているのでもなく、いい具合にとっているという感じですね。

―弥天さん自身が教えるようになったのはいつ頃からですか?

弥天 大学生からです。師範試験を受けて。でも名取をいただいたら教えてもいいんです。教わってた先生がご高齢になられたとき、いくつか教えられている教室があったので、そこで教えてみないって。

―名取っていうのは名前をもらえるってことなんですね。

弥天 そうです、流派のお名前を許していただくことです。試験で踊りを見ていただいて、若柳だったら若柳の名前を名乗っていいですよ、ということになります。

―個人差はあるものですか。なかなか上達しない弟子がいた場合はどうなるんでしょう。いつまで経っても名前をあげられないことってあるんでしょうか。

弥天 それは(笑)、確かに最低基準は上回ってないといけないけれど、勘が悪くても時間をかけたら超えられると思うんですよ。すぐにわかって、調子よくやっていると実はあまり掘り下げないというか、それで終わっちゃう人もいますし、覚えが悪くても長く続けているうちに格段に良くなっている人もいます。

―踊りの文法が体に馴染んでくるような感じですかね。

弥天 そうですね。最初はひとつひとつの言葉を飲み込むのに時間がかかっても、どこかで繋がってきて覚えは早くなります。音を取るのが苦手な人も、ある時はまるようになったり。わからない間は苦労するんですけど、修行ですから。私も音が取れない方で先生に何十回と怒られて。

―もっとちゃんと聞いて!って言われるんですか?

弥天 というか先生が「ここ!」って言ってるところが、わからないみたいなことが長くあったんですけど、今はわかるようになったし、わからなかった頃の気持ちもわかる。実際お弟子さんで苦労してた子もいますが、徐々に早くはなってます。

―それは教え甲斐ですね。

弥天 ええ。でも音感より空間が把握できない人はもっと大変かも知れない。日本舞踊は舞台の前と後ろというのがはっきりあって、舞台全体が一枚の絵として見えるようにしないといけないんです。前から見たときにどう形を作っていくかというのがあるので、そのイメージを持てないと難しいんです。それを教えるのに苦労することはあります。

―日本舞踊を教えるときにまず最初に何を教えるんですか?初めて入ってきた人に。

弥天 まずお辞儀からですね。お稽古の最初に必ずご挨拶があるので、先生を真似てそれをするところから。それから日本舞踊の基本的な「腰を入れる」をゆっくりとやっていきます。「いれる」「しずめる」「おとす」というところから始めます。

―「いれる」「しずめる」「おとす」は違うことなんですか?

弥天 そうです。段階をふんでいて。「しゃがむ」ってなると姿勢が前屈みになってしまう人もいるので、体の軸を保ったまま、まっすぐ下までしゃがんで座れるように。最初は小さい子でもこれができないことがあるけれど、1年くらいやると筋肉も付いてきてまっすぐ座れるようになります。あとは首を「曲げる」というのは普段しない動きなので、「首」ってネックの部分をさすけど、日本舞踊では頭を動かすことなので、その違いを理解するために、首をこう動かしますよって練習したりとか。同じように膝というのも膝自体じゃなくて太もも辺りのことになるので、基本の動きを使ってそういう言葉に慣れてもらったり。
あとは摺り足。足袋をはいて腰を入れて床を歩くお稽古をします。

―そういう基本的なことをだいたい出来るようになってから曲をやるんですか?

弥天 1回目から曲もやります。幼稚園に授業に行くんですけど、音に慣れてないから、童謡を日本の楽器で演奏した音源を使って足を踏むとか拍子を取る練習をしたり。流派が異なりますけど、花柳千代さんという方が本を出されていまして。その中で、日本舞踊には基礎練習というのがないので、基礎の動きの練習に特化した踊りをいくつか作られています。そういうのを他の流派の人も勉強してやります。

―基本練習というのはやはりあったほうがいいと感じますか?

弥天 今の生活スタイルだったら必要だと思います。昔は週に2、3回お稽古があって、曲の練習も細かく分けてやりますので稽古するだけで基礎というのは入ってきたんだと思うんです。でも今はみんな忙しいから、週2、3ともいかない。基礎の部分が定着しないまま続けて行くことになってしまうので、体の芯を作っていく基礎練習と曲を習う方がいいんです。週1回でも基礎があると補えるので。

―お稽古で鏡は基本的には使わないものですか?

弥天 私は使ってないですね。特に決まりがあるわけではなくて、使っておられる先生もいます。上方舞の武原はんという舞踊家は鏡を周りに並べてお稽古をしてたというので有名ですね。

―動画でですが踊りを見たことがあります。本当に踊りが静止画的というか、すーっと動いて止まったところの絵が決まり過ぎてるというか、浮世絵のような感じがしました。ちょっと他の日本舞踊を見てる感じとは違うと思ったのを覚えています。

弥天 襟元に針を刺しておいて顎が当たらないように練習したという逸話もあります。

―(笑)演歌歌手がろうそくの火を揺らさないように歌う練習するっていうのに近いやつですね。

弥天 鏡は大人にとっては客観的に見て判断できるものなんですが、子供のときにやってしまうと依存してしまうと思うところがあるんです。舞台に鏡はありません、体の感覚で形を覚えた方が本当の意味で踊れるんじゃないかとは思います。

―確かに鏡が補填してくれてこの位置で良しっていう自信がもてるけど、なくなった途端すごい心許なくなるのはわかります。

弥天 鏡がある方が効率はいいんです。私もちょっと鏡依存症みたいなところがあって、形と位置を見て覚えるんですけど、先生に位置で覚えるんじゃないって注意されます。動きが収まった時のその姿が大切なのに、単に位置で覚えちゃうと小手先みたいな動きになる。まあ揃えて踊る時とかはある程度必要ですけど、本来先生と体の大きさも違うから、腰を入れたときの自分の軸がどこにあるかをわかってないといけないので。
私は居合をやっていたこともあって、居合は型武道なんですけど、仮想敵という自分と同じ形の敵に対して切ったりするんですよ。鏡は一切使わないで、自分の目の前の体のどこを切っているのかイメージをしっかり持って。「羽を広げるように」背中を開くとか「水に沈む如く」腰を落とすとか、その言葉自体も美しいなと思ったんですけど、そういう感覚で動きを体に落としていきたいなと思った。だから子供達に注意するときも位置じゃなくて、今どこに軸があるのか、自分の真ん中ってどこですかと言うようにしてます。そしてただ表面的に作るんじゃなくて、心がどのように体を動かしているかを大事に教えたいと思っています。

―弥天さんは幼少期から踊ってこられたわけですが、踊りそのものや体の変化、もう少し広範囲に生活や生きている中での考え方など、変化や影響を受けた点で思い当たることはありますか?例えばものを見る時の視点とか。

弥天 ずっと日本舞踊と付き合ってきて、切っても切れない関係になってきて、大学生の時には自分で振付をしてみたいと思ったんです。だいぶ方向転換をしてコンテンポラリーダンスをやってみて、日本舞踊って古いというか、かなり前に作られた振りをずっと踊っていて、新鮮味がないという気持ちになってしまった時期がありました。だけど続けて行く中で、日本人が四季をどんなふうに楽しみ生きてきたのか、ものの扱い方の丁寧さを感じたり、お扇子や手ぬぐいなど、柔らかいものを動かしたり、風の動きなんかを踊りの中に取り込んでいて。日本人の心の豊かさというか、そういう表現を素直に美しいな、おもしろいと思えるようになったんです。「抜け」や「流れ」がある部分にも魅力を感じます。特に京都にいると川とか鳥とか、昔の人たちが楽しんでいた風景を今の自分が見ても楽しめるし、暮らしの中に踊りの時間が繋がってくるようになってきて、今度は自分が楽しむだけじゃなくて、日本のよい部分を人にも伝えていけるようになりたいとも思うようになりました。お扇子ひとつ見てみても、描いてある梅の枝の動きとか、余白がおもしろいなと感じたり。

それから、2年前くらいにペン習字を始めて、字にも中心があって、余白の使い方とかそれも日本舞踊に近いところを感じたりします。字の中心軸が揃っているとすらっと読めるんですよ。今はつづけ字をやり始めてますが、最初に字の骨格を学んで、それがどういうふうに動いていくかっていう表現は後からどんどん広がっていく。自分が日本舞踊でやっていることも、子供の時から基礎はやってきたけれど、これからは自分でどう表現していくかというところをやっています。苦しんでいる部分もあるんですけど、もう一回考え直して自分だったらどう踊るかまで幅を広げたいと思ってやってますね。巡ってきた感じです。今はすごい習字が好きです(笑)

―(笑)なるほど。私も2年前くらいから俳句を始めて、五七五しかないあの中に、しかも季語を使うとなると自由になる部分なんてわずか数十文字で、そこで詩を作るというルールの上で言葉を編成するのがすごくおもしろくて。今のお話しにあった日本の季節感とか風景というのは季語にもあって、こんなに細かく季節を言葉として残してきたのかと歳時記を見ていると思います。現代の生活から見れば死語になっている季語もあるんですが、歳時記を眺めているだけでもおもしろい。
表面的に「美しい国日本」と言われてもあまりにも表面的でむしろ浅はかに思えるけど、ある観点から実感を持ってもう一度自分たちの生まれ育った風土と文化を眺めることができれば、どうしようもないんですよこの国、っていうだけじゃない美しいものも魅力も見える。そういう意味で伝統的に行われているものからの発見はいっぱいありますね。美も伝統も対外的にラベリングするんじゃなくて、やはり身体化していかないといけないと今のお話しを聞きながら思いました。
最後に弥天さんはこれから年を重ねながら、どのように踊っていきたいですか?

弥天 若い頃はキレよくとか、動く方に意識がいっていましたが、これからは踊りの中にゆとりやゆらぎを楽しむような踊り方になって行くといいなと思います。私は細かいところを気にし過ぎるところがあるので、形よりもっと深いところで、今どういう気持ちでこの足を進めたのかとか、そういうところも深めていって、そしたらどういう踊りになっていくのかなと。身体的に飛んだり跳ねたりできなくなっても体の芯で表現できたらいいと思います。90歳くらいで踊られている先生方を見ても感動しますし、味わいがある。踊りに対して愛情を持って自分も味わいながら踊れるといい出汁が出るというか。今は日本舞踊の新作公演に関わる機会をいただいていて、動きに限界を作らないで可能性を探している状況なんですが、それも今の自分には必要なことで、その先にいい出汁が出るようになれば、とは思います。

若柳弥天(わかやぎ びてん)

舞踊家(日本舞踊若柳流) 3歳より日本舞踊を始める。
子供日本舞踊コンクール「若菜会」「DCOS」に出演し賞を受賞、また歌舞伎観賞教室の子役やその他演劇作品に出演。
現在教室や学校にて日本舞踊講師を勤める。日本舞踊協会新作公演、南座超歌舞伎に出演する他、映像、舞台作品に振付・出演している。第54回なにわ芸術祭新進舞踊家競演会にて新人賞受賞。
日本舞踊協会会員。

妙満寺 鐘供養 地唄 「鐘ヶ岬」 撮影:中野貴広

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