リアルな他所

yoso

京都でやっていたアートイベントの展示でVRというものを体験できる作品があった。
VRヘッドセットという海女さんのゴーグルみたいな形の装置を着けると映像が見え、実際にそのときいる場所とはまったく違う場所にいるかのような立体感を伴った映像体験ができる、というもの。
展示があった会場は御所の傍で江戸中期からそこにあるらしい数寄屋造りの立派な庭のある建物で、受付に行くとまず庭をゆっくりご覧下さいと案内された。

庭を歩く。あちこちから放射状に広がる木の根で波打つ地面を苔が覆っている。その上に木の葉の隙間から光が点々と落ち、石の表面に地衣類が白い斑点模様を描いている。植物や石の配された場の静けさをもらってしんとなりながら飛び石を渡る。
そのあと建物のなかに通された。写真が数点展示されている。VRの映像は写真家とのコラボレーション作品らしい。VRの準備ができたと小さい座敷に案内される。四畳半くらいの部屋の真ん中に座布団とヘッドセットが置いてある。入った部屋の正面と右側は障子で右側にはさっき歩いた庭が見える。装着しながらそういえばVRってなんの略ですかと尋ねると「バーチャル・リアリティです」という答えが返ってきた。

ヘッドセットを装着すると実際の畳の上に遜色ない畳の映像が映って見えた。左側を見てくださいと言われて左を向くと、床の間の掛け軸の文字がはみ出して、空中に線を描きはじめていた。それから部屋の中がなくなり、外になって雨が降り風で木がしなっている。真上もうしろも、見回しても雨が降っている。動かない女がいる。画面が切り替わって右側の障子が取っ払われ縁側になり、さっき歩いてきた庭とは違う枯山水の庭が広がっている。そこへ空気人形のようなワンピースの女が凝固したまま飛んで来て、目の前を通過し青空に飛び去って行った。最初の部屋に戻ったと思ったら今度は背を向けて正座した女が目の前にいて、その周りには抹茶茶碗がいっぱい並んでいる。茶碗のひとつが触れそうな距離にあったので手を伸ばしてみたけれど、自分の視界に入るはずの私の手は見えず、もちろん茶碗にも触れない。

というのがVR初体験だった。それでそのあとぼんやり考えていた。
VRを着けているときに見たものは実際にはないのに、自分がその場所にいるかのような説得力を持った錯覚を起こさせる。360度見渡しても取り囲まれていて、錯覚に包囲されるような感覚になる。立体的に迫るイメージのリアルさを雄弁に主張してくる。一瞬説き伏せられそうになるくらい。
自分の手は視界に入るところにかざしても見えなかった。まるでそこにあるかのように見えている世界で私の体はないことになっている、と思った。
立ってはいけないらしかったので座ったままきょろきょろしていたけれど、身動き自体はかなり制限される。それはヘッドセットを着けたままやみくもに動き回ると床柱に膝をぶつけたり、障子に手を突っ込む危険があるからだけれど、その世界を見るということ以上に私はなんら働きかけることができない、という意味でもある。だから目だけ、視覚だけが抽出された気分で、その間まるで首より下の体は付属物のようだった。でもきっとそのうち首より下もVRの世界に引き込まれるシステムが開発されるのだろうし、もうあるのかも知れない。

けれど見えている世界がありえないくらいメタモルフォーズしてあらゆる場所に連れ出されても、一向に体は現実の方にぶらさがっていて、膝を打ったら痛いし青あざもでき、障子を破ったら怒られる。装置から与えられる体感がどれだけビビッドでも、やっぱりここにあってしまい、変幻自在にならず消えもしない体のあること、そのことが気になってくる。この置き去りになるもののどうしようもなさ。感想として残るのはむしろそんな素朴なことだった。

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