日記

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6月が終わったということは、すでに1年も半分が過ぎたということで、あじさいが咲ききった頃に出遅れた梅雨がやってきた。今年の最初に決めた月初めに赤飯を炊く習慣はこの半年続いている。

毎年、6月末になるとひとつ歳をとる。そういう特別なときに食べるために日常から隔離してあるヴァチュールのタルトタタンを食べた。火を通した場合のこれ以上ないりんごの煮詰まり加減。りんごの極限状態に毎回うなる。
去年の今頃はどうしていたっけと思って日記を読み返してみたら、一見すごい量に見える映画館のポップコーンはそんなに食べた気がしないのに、上演が終わる頃にはものの見事消えているようなところがフィクションと相性がいいとか、絵をいつもより大きい紙に描いたとか、読んだ本の名前、そんなようなことが書いてある。毎日寝て起きて何か食べ、起きているあいだに何かして、また食べて寝ているわけだから、いる場所が変わってもやっていることはさほどかわらない。
前に読んだ写真家の中平卓馬の日記には、毎日の自分と家族が寝起きした時間、食事をした時間だけが書かれていた。そこに時々プリントした写真の枚数、釣りに行って釣った魚の数などが加わるけれど、毎日ほぼ同じような感じで時間や数が記され、日記というよりほとんど何かを観察して書いた客観的記録のようだった。1日の詳細な内容や本人が思ったり考えたりしたことや情緒的なものは一切省かれている。その生活を文字から想像すると、本人を含めた家族は寝床にごろごろ横たわり、起き上がって、ひととき食卓に群れ、またばらけて群れて横たわる反復運動を小さな家のなかで延々繰り返している生き物のようだった。生活になんの装飾も施されていない。けれどとにかく生き物が生きている感じがあり、それがなんだかやけに生々しく、そういうふうに日々を捉える視線は中平卓馬の写真と地続きのようだった。

70近い知り合いの男性の家に行ったとき、その人は足が悪いのだけれど、両親が亡くなったあと、ひとり生家である2階建ての一軒家に暮らしていた。年々足は動き辛くなり、今はもう2階に上がれないらしい。その2階には50年以上書き続けている日記と、趣味で毎週のように描いてきた裸婦の絵も数10年分置いてあるらしい。男性は手も少し動き辛く筆圧が弱いので、絵は鉛筆で薄い線を何度も引いて体の輪郭線を描いていた。日記に並ぶ文字もたぶん薄いのだろう。書くのも時間がかかる。男性はしばらくあとに施設に入ってしまって、その日記は表札そのままで空き家になっている家の2階に読まれることのないままたぶん今もある。

自分の過去の日記を読んでいるとむしろ書いてあることよりその周辺にあったもっと細かなこと、書ききれなかった事々を文字の余白に思い出す。書いてあることから書いていないことを読んでいる感じがする。ある映画や本を選んだときの自分の感じというのが呼び起こされたりする。どういう日記にも書いた本人にしか読めないところがある。
誕生日だとかの節目が訪れると来年の今頃はどうしているだろうとなんとなく想像する。この先も変わらず、誰かのそばにいたり会えたりする訳ではないということが年々実感されてくる。予期せぬことは起こる。
いつかはわからないけれど、いずれ終わることだけが決まっているその間にあるという、この今というのが自分にある奇妙さは、何歳になっても変わらない。

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