タテマエウシロ

tatemaeushiro

京都の人は本音とタテマエの使い分けがうまいとかいう。生まれてこのかた京都にいるけれど、それはともかく、タテマエというもののことを最近よく考える。
日常でのタテマエというのは、相手との関係を波風立てず潤滑に維持したいという場合に用いる。だからタテマエとは、ある関係において良きものを保ちたいと思う場合に用いる言葉のありようで、本音を言わないということは、相手に手の内を見せないふるまいというより、相手との関係を維持したいという欲求であると思う。
タテマエを使うとき、言わない本音はどうなっているだろう。タテマエと本音は別物ではない。タテマエは本音の幹から枝葉のように伸びている。本音とは自分自身の状態や気分を基礎とした意向であり、ある状況においてそれを反映させたいという欲求を含んでいる。けれど私はこうしたい、こうしてほしいということをいつもそのまま言葉や行為としてぶつけることで必ずしもその通りになるわけではないし、それがいいとも限らない。私に意向があるのと同時に相手にも意向がある。コミュニケーションを図ることとは、のこぎりで切った本音の幹をごろんと相手に転がすだけでなく、むしろ枝葉を手渡すことで双方の意向の合間を縫って意思疎通を試みることなのではないだろうか。時にはごろんとやるのがいい場合もあるかも知れないけれど、枝葉には花も実もなる。タテマエは嘘ではない。

誰もが本音で話さない世界は他人行儀で味気ないものだろうか。
けれど普段自分が使っている言葉を思い返せば、言葉として使うタテマエの方が私になっているという感覚すらある。本音は言葉を生む源泉として存在するけれど、タテマエを使うことには、自分の感覚することとは違う体を持った他者への想像力が含まれる。その上で言葉を選ぶということで、本音であったはずのものが、タテマエのなかで維持される双方のあいだに吸収されてしまうことも起こる。されに本音だと思っているものの角度を変えてみれば、案外それも確固たるものではなかったりする。それくらいに人はゆらぎのなかにあるものだし、固定化されたものではないとした方が、世界の捉え方が豊かになる気がする。

人との関係のことを間柄と言ったりする。間には柄がある。模様がある。人との関わりにおいてそのあいだにいろんな模様を描けたほうがいいように思う。

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