着たいときに思い立って着物を着られるくらいになっておきたいと数年前、某無料着付け教室に通った。15回の講座のうち2回セミナーというのがあって問屋に連れて行かれる。反物や帯地の産地、製法の説明などもあるけれど、ちょっといいなと思ったものを手に取ろうものなら鏡の前で反物を体にあてられ、呉服屋と講師の買うなら今しかない猛攻にあった。仕立て代も込みでいくらだと言われるその値段は破格だと言われる。それでも数十万単位の買い物で、呉服屋初体験の者には本当に安いのか質が確かなのかどうかも判断できなかった。隣室ではすぐにローンが組める手続きができるらしく、買った人はその部屋に消えていく。テコでも買わないというか実際買えないので買えませんで通し、着付けの手順だけ習得してきた。そんな生徒でも一応着付けはきちんと教えてくれたので感謝はしている。
着物はそもそも祖母と母のものがたくさんあって、さらにうちは女兄弟だったから親戚から着る人のなくなった着物が集まっていた。以前住んでいた家のお隣さんが着物姿を見て、若い時分につくったもんやけど着はるんやったら使てくれたらうれしいと譲ってくれた帯などもある。そうやって集まった着物や帯はこれもまた親しい人から譲り受けた桐箪笥に仕舞ってあるが、それも既にいっぱいになっている。未だ自分のものを誂えたことはないし、いつかと思うけれどなかなかそんな余裕もないまま買ったのは襦袢、半衿、帯揚げ、帯締、草履くらい。なので方々から集まったいろんな人の着物と帯を取り合わせ、自分の体に合わせて着る技術は自然と身についた。
着物だと柄と柄を合わせても色彩やトーンをうまく合わせると案外うるさくならない。そういう場合は帯揚げや帯締、羽織で引き締めたり、小物でバランスを取る工夫をする。あとは襟の抜き加減、帯の位置、お太鼓の大きさ、おはしょりの幅等、着こなしに個々の体なりのいい塩梅があって、それを知るには回数着るしかなく、単に着るだけでなく似合うまでの道のりがある。
着物をまとう体は凹凸のあるボディというよりむしろ、布を巻きつけるための棒であればいいというふうに腰などの隙間を補正してまっすぐな胴にする。そうした方が着崩れないし姿は決まるけれど、普段着として着物を着ていた時代は今のように補正なんてしなかったに違いない。実際に浮世絵や明治頃の写真を見てもラインが違う。衿の合わせが浅いし、鳩尾あたりにくびれがあって帯も柔らかく、裾は広がってゆるやかな印象がある。写真用にきちんと撮ったのではない普段の女性の着こなしは半ば着崩れているくらいラフな感じになっている。着物が主に礼装として着られるようになってから、着崩れてはいけない場面での着付けが一般化したらしい。
着物に惹かれた当初は銘仙などのアンティークで奇抜な柄物に憧れたけれど、今は七宝や唐草の古典柄、縞や紬の落ち着いた着物を好むようになった。最近京都の街では若い人の着物姿を頻繁に見かける。観光客向けのレンタル着物屋が増えて、ビビッドな花柄に身を包んだ女の子たちが花見小路で写真を撮っている。京都のなかではポリエステルの着物姿に冷淡な目もあるけれど、それは貸す方にも問題があるように思う。着物の本来の魅力は自分で着るまでわからないところが確かにある。それでも観光でやってきた彼女らは実際袖を通してみて、洋服と比べて動き辛く、紐や帯の締めつけも気になるだろうし、不慣れな草履で普段とは足の運びも歩幅も違って歩きにくいなか街や寺社を1日歩き回り、そうすると必然的に表面の華やかさ以外の着物の体感を味わうことになる。翌日はきっと向こう脛あたりが筋肉痛になって、洋服で生活するのとは違った所作が衣服によって要請された名残を感じるはずで、写真には残らないそういう違和も体感して帰っていくのだと思う。
歩行も所作も衣服や履物によって振付けられるところが大きい。今とは異なる様式で生きられた体が自分の体を遡った先にある。日頃ユニクロに包まれていても時々それを揺り起こしたくなる。