沼好物というのは、沼地に足を取られるかのごとくはまり込んでしまう好物のことで、3分ほど前にみたらしだんごを食べながら思いついた造語である。
私の沼好物はみたらしだんごで、なかでも特に沼化しているものとしてヤマザキの3本入りみたらしだんごが挙げられる。これが沼となっている理由はまず100円で買えること、食べたいと思ったら近所のスーパーまたはセブンイレブンで容易に見つかること、餡の濃度が濃いので垂れて服を汚す心配もなく、容器に残った餡を最後までスプーンですくって食べようとする意地汚さを発揮せずに済むくらい餡とだんごが一体化していること、などが挙げられる。
もっと美味しいみたらしだんごというのも世の中にはたくさんあるはずで、試しにみたらしだんごで検索してみた。発祥とされているのは京都の下鴨神社の傍にある店で、夏に御手洗祭という川に足を浸す神事があるけれど、境内の御手洗池の水の泡を模して作られたという詩的なおいたちだった。小さい頃お土産にもらって食べたおぼろげな記憶はある。
祇園に夜だけやっている「みよしや」というみたらしだんご専門店がある。夜にその前を通ると大概行列ができていて、炭で餅を焼くにおいが通りすがりの人々の足を止め、うっかり並ばせる。並ぶのがきらいなのでいつも端から見ているだけだったけれど、一度列が長くなる前を狙って買いに行ったことがあった。ヤマザキと大きく違う点はなにより工場でなくその場で焼いているので温かいこと、それに夜数時間だけしか営業しない上に毎日行列のできるだんごやのだんごであるという付加価値、そしてきなこがかかっていること。買ったらすぐさま食べたくなって歩きながら包みをあけた。しかしあけてから食べ歩くのに向かないくらい餡がゆるいことがわかり、人混みの四条通で食べるには不向きだった。だんごには適度な弾力と炭火の香ばしさがあり、もち米の風味もしっかりしている。ただみたらしだんごに求めるのは、餡とだんごであるので、きなこの存在が私には余計に感じられた。
ヤマザキのみたらしは量産されすぎているし、あまりに手軽でありがたみもなく餡の味も濃いけれど、それゆえ人を引きずり込む沼的要素を備えているとも言える。最近俳句を始めたのでここで一句詠んでみたい。
ヤマザキのみたらしだんご春の沼