ウースターグループ『タウンホール事件』

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毎年秋に開催される京都国際舞台芸術祭 KYOTO EXPERIMENT 2018 が今年も始まった。期間中は毎週末京都の各劇場で国内外の先鋭的な演劇、ダンス、パフォーマンスが上演される。
プログラムを開いてみて例年と異なるのは、招聘されたアーティストが全て女性であるところ。ディレクターズノートには「性およびジェンダーが文化的であるだけでなく、いかに政治的なものであるかへの問い」「「他者としての女性」というアイデアを通じた社会への問い」そして「どう考えても女性が屈辱的な地位にある現在の日本の社会の中で、ここで暮らす女性たちにエールを送りたいと思った気持ちがスタート地点にある」とあった。
今回観たウースターグループの『タウンホール事件』。ウースターグループは1975年からニューヨークを拠点に活動するマルチメディアな手法を駆使し演劇、ダンス、映画、ビデオ作品とジャンル横断的な活動を展開し、演劇の可能性を追求し続けてきた。今回上演された『タウンホール事件』は1971年第二波フェミニズムの只中のニューヨーク、タウンホールで催された討論会のドキュメンタリー映画『タウンホール・ブラッディ・ホール』の映像をもとに、俳優たちが当時の登壇者に扮して議論と出来事をリプレイする、という方法で上演された。

1960~70年代にかけてアメリカではウーマン・リブ運動が活発に行われ、女性の一生を予め規定するような家族のあり方、内在化された「女らしさ」や男女の役割分担への問題提起、中絶の合法化などが掲げられた。今回の上演の題材になっている『タウンホール・ブラッディ・ホール』ではベストセラー作家ノーマン・メイラーの著書『性の囚人』についてメイラー本人、フェミニスト、レズビアンの作家、運動家、批評家の女性たちが様々な立場から討論を交わす模様が記録されている。『性の囚人』でメイラーはケイト・ミレットをはじめとするフェミニストの様々な文献を引用しつつ、ばさばさ斬るように批評する。例えば女性の性的快感は膣内では一切得られないと断言する意見や、妊娠という身体拘束から女性を解放すべく子宮外で胎児を育てるテクノロジーがいち早く開発されるべきという意見などをメイラーは批判している。

舞台上の俳優は映像の人物の喋り方や身振りをトレースし、衣装も映像に近いものを身に付けて登場する。舞台奥にはスクリーンがあり、ドキュメンタリー映画が断片的に映し出される。その前に映画の風景を模したパネリスト席とスピーチ台、そして舞台の方に向けられた観客には見えないモニターが数台設置されている。このモニターには俳優の動きを演出するための映像が映し出されているらしい。ウースターグループはリハーサルを録画し、即興的に生まれた動きを上演のための振付けとして引き込んだり、映像のカメラワークを俳優の動きに反映させたりする手法を用いている。動作を内発的な動機とは切り離したものとして、発話されるテキストと体の状態に意図的な齟齬を生む演出として利用される。俳優がモノローグを発話しながら動くさまはいわゆる自然な所作ではなく、発話の内容とは関わりの見て取れない身振りをしている。その違和によって立ち現れる奇妙さから観客は、ある鮮度をもって言葉や身体と遭遇する。どこかズレたものを前にしたとき、観客の思考の触手は伸び、傍観よりも上演の時間を引き寄せて観る契機になる。観客の能動性への導入を敷き、そこから言葉を手渡していく上演はとても軽やかで、意味の伝達や単なる再現に終始しないあそびの感覚をはらんでいた。

メイラーとフェミニストたちの白熱する討論が俳優によってリプレイされる。そのなかで女性は「不適格な女神、不本意な召使いである」という言葉が耳に残った。
私は女性であるけれど、屈辱的と言うほど女性であることに抑圧を感じてはいない。ただ日々生活していると役割を引き受けざるを得ないと思うことはある。例えば日本では男女が共働きで生活している場合、統計的に見ても家事分担の比率はまだ女性の負担が大きい。これを解決すべく分担ルールを決めたりしてバランスを取っている家もあるだろう。けれどそれがうまく機能しなかったり、いちいち指示するのも双方あまり愉快ではないし、相手の機嫌を損ねると遠慮して何も言わなくなることもある。いつか気付いてやってくれるのを期待して待っていては毎日は到底まわらない。もはや自分でやったほうが早い、結局私がやるしかない、という諦念に至り、気付けば女性が召使い化してしまう傾向にある。あなたがやらないということは私にやれということと同義です、という言葉を飲み込んで。その消化不良はやがて不機嫌としてあらわれるか、ある日フラストレーションとして爆発するか、もしくは不平を言わず日々坦々とこなすことを美徳とするか。認識は変わってきているとはいえ、家事は女性がするものという刷り込み、献身的に家族を支え世話する女性像の内在化は案外根が深い。

生活を共にする相手が充実して仕事や為すべきことに取り組めるようはからうことはいいと思うが、それが一方的なものでなく、お互いがそのように立ち回れることが理想で、なおかつ役割に過度なクオリティーと一貫性を持たせないことが重要ではないだろうか。女性に「不適格な女神、不本意な召使い」という配役を背負わせないこと、同じく男性を「不適格な王子、不本意な大黒柱」に仕立て上げないこと。気を抜くと私自身男性に、精神的経済的な支柱を求めたくなってしまうことがある。家父長制には否定的でもどこか男性に美化された父的なものを見ようとしてはいないだろうか。そうやって相手を縁取ろうと作用してしまうことにも自覚的でなければならない。あらかじめ定型の役割を背負わず、双方が時により様々に立ち回れる自在さを持つことは、現代的な男女のあり方の指針になるだろう。もちろん男女は同じではないし、性別のみならず人はそれぞれ刷り込まれたもの以外にも心身の特性を持っている。先天的とも後天的とも言い切れない傾向というものはどうしてもあって、性別がそれを方向付ける矢印として作用する部分はおそらくかなりある。けれどそれらをただ野放しにせず、と言ってむやみに抑圧もせず、各々動的なエネルギーを発することができる関係を状況に応じてアジャストしつつ維持することを真剣に目指すべきだ、と観劇後の日々考えながら米を研いだりしていた。

演劇とは何かと問うとき「言葉が聞かれる」場を開くことがその一つであると思う。今回の上演で聞いた言葉というのはドキュメンタリー映画『タウンホール・ブラッディ・ホール』で話された言葉であり、もしもこの映画を観る機会があればおそらく今書いたようなことを考えただろう。演じられることを介して言葉を受け取ったことが自分にとってどう作用しているかは、例えば男女の役割の一貫性を回避するということについて考えるとき、現代演劇において役を固定化せず流動的に演じる方法のことが過ぎったりはしたけれど、演劇の上演でしか聞けない質の言葉であったかどうかというと疑問が残る。いわゆる演劇のフィクションの時間を経たという感覚とは異なった方法で言葉を聞かせるウースターグループの上演は、このカンパニーが常に演劇の手法を問い、更新し続けていることと関わっているのかも知れない。

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