昨年の春に俳句をはじめてから御中虫という俳人を知った。おなかむしと読む。
1979年の大阪生まれ。第3回芝不器男俳句賞の新人賞を受賞している。女性である。
伝統を重んじる保守的な俳人はまず御中虫の句を好かないだろう。彼女の句は俳句らしき体裁を整えようとする類の句に対するアンチテーゼであり、殴り込みであるからだ。
御中虫の句には季語と五七五を守った有季定型と破調の句が入り混ざっている。どちらにせよ句を読んで聞こえてくるのは彼女の「肉声」である。実際俳句をやってみるとわかるが、有季定型で詠もうとするとまず何もできないという感覚になる。季語を使わねばならないという縛り、そして全体の3分の1を季語に与えるとその他私に許されるのはたった10数文字である。それで初心者が作れるのは、季節の雰囲気を字数内にまとめただけの毒にも薬にもならない句らしきものだったりする。まず強固な構造を前に身動きが取れなくなるのだ。それでもしばらく定型の中でもぞもぞやっていると、やや可動域を見出せるようになる。季語とも付き合っていくと、表層的な意味だけでないものを季語を起点に探しながら五七五を編成するおもしろさにも気付き始める。
俳句のひとつの方法として客観写生に徹するという態度がある。俳句は主観を述べるには短かすぎるので、ものごとを客観的に描写しつつ主観をそこに投影するというようなことである。けれどこのことを少し考えると客観と言いつつ、結局その目は私が介在する限り主観であり、その濃度を希釈しすぎても個の匂いが抜け落ちた形骸ばかりの句になってしまう。客観写生に徹するとすれば、客観というフィクションを構築する強固な自意識が必要なのだ。そういう自己の目の探求的創意がなければ、新しいものは生まれない。そして肉声を抑制してくるこの形式において、肉声が聞こえるということはやはりすごい。やろうと思ってもそう簡単に俳句の形式の中でそんなふうに振舞えないからだ。御中虫の句を読んでいると、この人には現代詩ではなくて俳句という定型があることが重要なのではないかと思う。抑制の中に身を置くからこそ特に響くものがあるように感じられる。俳句という器から漏れてくる肉声。何より御中虫と俳句が出会ったということが幸福ではないか。彼女のような言語センスとメンタリティを持つ人が俳句に足を踏み入れ、しかも本気になるということが稀なことなのではないだろうか。気になる句をいくつか挙げておく。
ところどころ説明のつかない銀河に住む
卵さん割りますよ初春の朝
チューリップ体は土に埋まりけり
寒くないだって私は雌だから
じきに死ぬくらげをどりながら上陸
遅々として進まぬ議論にレモン絞る
原材料不明のおやつ食ひ暑し
マンボウを見て少しだけ若返る
その善意突っ返します夏浅し
いろんなものが滴るなかに手もあった
コットン25レーヨン75の春雲
結果より過程と滝に言へるのか
あるがまゝの姿で水仙うそくさい
月といふのですか、巨きな石ですね。
第一句集『おまへの倫理崩すためなら何度(なんぼ)でも車椅子奪ふぜ』このタイトルも破調の句だが、際どい言葉でなんて胸のすく、と思った。第一句集が欲しくて探したがどうやらもう手に入らない。残念すぎてネット上から御中虫の句を漁って自分用の御中虫句集を作ってしまった。
第二句集『関揺れる』は手元にある。この関とは人名で、茨城県在住の俳人関悦史のこと。震災直後ツイッターで日々揺れたとつぶやく関氏のツイートを眺めながら、関西在住で被災しなかった御中虫は「関揺れる」を季語として震災俳句を詠んだ。これには別の動機もあって、長谷川櫂というよく知られた俳人の『震災句集』に対する抵抗でもあった。彼女は長谷川櫂のこの句集に全く良さを感じられず、むしろキモいと評し、その俳句を良きとする人たちにも物申す思いで『震災句集』と同じ125句の『関揺れる』を編んだのだった。何句かここに引いてみる。
春麗洗濯物と関揺れる
関揺れる人のかたちを崩さずに
神仏の力を超えて関揺れる
私は先刻揺れたが今は関揺れる
関さんと一緒に揺れるをんなかな
「この季語は動きませんね」関揺れる
関の揺れ共有できず春の月
本日はお日柄もよく関揺れる
「お母さん、関と」「ダメ、まだ揺れるわ」
暴動の起きない国を関が揺らす
私は初めて『関揺れる』を読んだとき、本当におかしくて読みながら笑った。震災以降揺れ続ける地面の上で日常生活を送る関、そして関以外の人びと。どうにもならないものとの共存が不安という側面からのみ切り取られず、こんなふうに俳句で詠まれることは、それまでおそらくなかっただろう。震災を語ること残すこと、悼むことも当然必要だけれど、当事者の口調では語れないという地点から、被災から自身を遠くに感じているからこそ見えるもの、詠めるものもある。俳句らしき体裁を整えることに気を取られ、震災の風景と季語を消費しないという態度、『関揺れる』は御中虫という俳人の反発と実感を起点に編まれた誠実なユーモアである。ただおもしろいだけでなく、こういうものはどこか人を救う力を持っているのではないか。
ネット上では最近の彼女の足跡を見つけられなかった。私はこれからも彼女の句を読みたいと思っているのだが。