演劇「シティⅠ・Ⅱ・Ⅲ」

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『シティ』はカゲヤマ気象台の戯曲三部作で、今回京都芸術センターで『シティⅠ・Ⅱ・Ⅲ』と連続上演された。それもなぜかコンテンポラリーダンス企画の枠組みで。
Ⅰはプロデュースゆざわさな、ドラマトゥルク渡辺美帆子、振付川瀬亜衣、Ⅱはhyslom、Ⅲは捩子ぴじんと主に演劇を作っている訳ではないアーティストによって上演され、1日で全ての作品を見られるようスケジュールされていた。三部作の物語に連続性はないけれど、共通した世界観として、文明が一度滅び再興した未来の物語として描かれている。十全に語る言葉を失ったかのようなカタコトの人々がどこなのかよくわからないシティで生きている。ちなみに戯曲は公開されているので、以下から読むことができる。
http://www.kac.or.jp/events/24525/

三部通して姉、弟が出てくる。描かれ方は断片的だが、最もはっきりと姉、弟が描かれているのはシティⅠである。今回上演されたシティⅠの出演者は男性、女性、子供の3人。冒頭、舞台上には大きな黒い紗幕が敷かれており、男女はその下でゆっくりとうごめいている。子供は紗幕の周りで跳ね、何かに手を伸ばして触れるような身振りで踊っている。
戯曲を読んでから観るか、読まずに観るかで作品の受け取れるものがかなり違ってくる。読んでから観た者としては、冒頭の紗幕の下の男女は姉と弟に見えた。ふたりは同時にではないが同じ場所から生まれ出た者である。戯曲を読むと「姉」という存在が劇作家の創作動機にどうも深く関わっていることを感じるが、シティⅠの冒頭は、同じ胎内を発生源とする姉と弟を象徴するようなシーンに思われた。あるいは夜の帳の下の男女とその果てに発生した子供。そして後半出てくる掃除機や家具など具体的な生活用品の数々「帰ろう」という台詞から家族らしきものの印象が浮かび上がる。台詞の多くは手紙に書かれたものを読むという発話、あるいは映像字幕で文字を登場させるという手法が選ばれていた。その方法から3人は戯曲に書かれた「役」の外にいる誰かである状態と「役」を担っているように見える時間とを行き来しているように見える。子供の声で読まれるテキストは、カタコトの言葉に内蔵された言葉足らずなエモーションをほぼ自動的に引き出してしまう。また出演者の古川友紀の個の澱を濾したように澄んだ声もテキストの姉の質感と呼応していた。
ラストシーンでは3人で茶碗を並べてご飯をよそい卓袱台を囲む。お膳に手をつけることはないのでお供えのようでもある。もしかするとみんな死者で、たまたま居合わせた幽霊が家族のように見えているだけかも知れない。
作中で気になったのは、記号としてどう読み取っていいのかわからない振付の存在だった。作り手側にとっては動機も理由もあるのだろうけれど、創作過程を共有しない観客にとって振付の必然性が宙に浮いて感じられた。
例えば冒頭の子供の動きは京都の街を歩いて触れたものから振付を立ち上げたもので、街歩きから今回のクリエイションを始めたというシティⅠの冒頭に振付という形で引き入れられたと聞いた。そうであることは見ていてもわからない。観客とのあいだに動きの動機が共有されていればいいかというと単にそういう問題でもない。もちろんダンスは動機や理由を超えて享受することができるものであるけれど、今回のダンスのありようには、作品の中でのそれ自体の根拠を問いたくなる部分があった。戯曲の上演であるという軸足と、抽象化された身振りを行う身体の関係が不明瞭で、観客との間で所々接続不可能が起こっていたように思う。そのあたりに劇の時間が立ち上がるための持続に欠ける部分があったのではないか。

hyslomによって上演されたシティⅡは6ページほどの短い戯曲で、登場人物もA、B、C【根源】【下等生物】【作者】とあり、台詞は主に「あいむ、くれいじい!」というふうに英語でひらがな表記されている。そして日本語で宮沢賢治の疾中の詩『目で云う』が引用されている。
おそらくシティ三部作の中でどう手を付けていいのかわからない戯曲である。ト書きには「背後には【根源】がいる」「舞台下手には【下等生物】が吊るされている」「泉を見つける。三人はその水を飲む。霊感に撃たれる。」「三人は【下等生物】を火葬する。」「【根源】が突然膨らみ、爆発する。」といったことが書かれている。
上演する際に一体どうすればいいのかと思われる事々で書き切られているような印象があるが、上演する方がそれを編集したり、やらないことも当然できる。けれどhyslomは戯曲に忠実に書かれた全てやってのけた。
出演者はhyslomの3人と男性の4人。舞台上には10人以上で運び込まれた大きな鉄製の釜が据えられ、これは戯曲に書かれた泉に見立てられているらしく水が張ってある。下等生物は吊り下げられた氷塊であったり、火が実際に持ち込まれたりする。砂袋が散らばる仕込み途中の仮設されたような劇空間は、昨年仙台メディアテークで行われたhyslomの個展を彷彿とさせた。
行われるパフォーマンスは戯曲の展開に添いながら多分にアクシデントも含まれ、特にhyslomに親しみのある観客、起こってしまうことへの感度の高い観客はそれを見て笑う。初日と楽日の2回観たが、初日は特に戯曲の外枠で起こることが多く、頻繁に笑いが起こりノイズの方が立ってしまって彼らが遂行する戯曲のラインがぼやけていて、場のノリにも同調できないので遠い目で眺めてしまった。とは言え、例えば上演中に出演者が鳴らす太鼓を観客の子供が叩きたいとぐずれば、彼らは普通に太鼓を手渡す。想定外の要素をなんら上演の妨げにしないスタンスには惹かれる部分もあった。
楽日の上演はノイズとなるものがコントロールされ、彼らの持ち込んだ物と行為と戯曲の関係が均衡し、劇の時間として張りの保たれた上演になっていた。埃の立った劇空間に女性の声で録音された宮沢賢治の詩がしんと響く。水や火やパンが神聖なイメージを呼び込みつつ、それらが完全に演劇に回収されず、彼らの体と共に常にどこかはみ出している。【根源】をやっていた通訳兼プロンプター的な役の南大輔の、劇の内に居ながら外枠の視線を介入させる立ち位置も重要な役割を果たしていた。
普段演劇をベースにやっている人がこの戯曲の上演を構想するのでは、まず空間に引き入れられなかったであろう物たちと展開が繰り広げられていた。彼らの出会ってきた物たちが演劇をするという名の下に集い、そこから劇を遂行しているということも行為に説得力を生む要因であろうと思う。まるで指示書のように戯曲を読んだhyslomの上演は、戯曲の上演における広がりを見せてくれた。言葉から立ち上がる演劇の時間は、書かれていることをどのような体で、どのように発話するかの工作だけではないのだ。

今回3演目のなかでシティⅢだけが昨年10月に愛知芸術劇場で上演された作品の再演だった。初演時とは劇場空間が大きく変わり、それに伴い美術も初演とは異なり、出演者の5人中3人は新しいキャストで、リクリエイションを経てほとんど別の作品になっていると言ってもいい。
シティⅢはどこかの都市(だった場所)に暮らす人たちと通りすがりの泥棒、旅芸人など、他2作と比べると具体的にそこで生きている人の営みがまだなんとなく想像できるように描かれている。とはいえ、人物たちの話す言葉はやはり言いたいことを十全に語れず、例えば翻訳サイトで変換したままを自らの言語としているようなどこか欠けた、カタコトの印象は貫かれている。
上演はおおむね戯曲の流れに忠実に進行する。出演者の演技や発声は、統一された方法やテクニックではないものによって支えられていた。個々の身体にフォーカスされた演技体が引き出され、凹凸を肯定的に捉えつつ導きだされた在りようが見て取れる。ただ、観客が演劇を享受するための時間感覚よりも、出演者の身体感覚に引き寄せられた「間」や発話が、戯曲の言葉と親和する部分と、間延びや所有と感じられる部分があった。作品においてそれらが許容されているということは、それを選択する身体から紡がれる時間を観よということである。提示された身体をまなざすことから劇を受け取る観客に個はどのように受容されるものであったのだろう。劇の時間の中で身体をあきらかにするには、劇の時間を生きる個々の「私」がもう少し殺されなければならないように思う。
戯曲に書かれた登場人物は5人でそれぞれが役を担って登場するが、出演者は6人。ひとりだけ台詞のない出演者の姫田麻衣がいた。彼女は劇中で黒子のような立ち回りをする。物語には関わりがないけれど、劇の時間の中で彼女はいないものとして扱われているわけではなく、見えるものとして存在している。黒子というより後見に近いけれど介添えに終始せず、そこに居る。名付けられないものが物語の時間に並走して存在することは、独特の浮遊感を与えていた。

特徴的な演出として、出演者が舞台上手下手にはけるとき、防音扉のロック音を観客に聞こえるように出入りするところがあった。物理的な遮蔽音に劇の時間はふいに切断され、劇と並走する「今」に引き戻される。その音は劇の時間を隙間なく構築することへの批評のように響く。
ラストシーンでは舞台奥に建てられていたビルを描いた書割りがアクティングエリアにせり出してくる。書割りは出演者たちによって運ばれ、支えられ倒され滑られ登られる。書割りはつまり劇においては背景であり「地」であるが、それが「地」であることを放棄して、でかい重たい木の板として「図」の方に参入してくる。出演者が書割りに物体として触れるということは、虚構を開示する意味の「ばらす」と、舞台装置を解体する意味での「バラす」のふたつの意味で劇がばらされる時間として捉えられる。これが、全部作り事でした、という締めくくりであったとしたら、それまで劇の時間に観客が見ていたものは、何もかも明かしてしまってよい芝居であったのかということになるが、ここからまた反転が起こる。
ラストシーンで板を支えていた出演者たちはひとりを残して去る。残された出演者が約4m×3mの板をひとりでなんとか支えながら「腹減ったな」といって板と共に倒れる。板はその大きさのわりに音を立てずに倒れ、観客席には板に押し出された舞台上の空気が風となって客席に届く。そして安野太郎によるどこか不穏な「神聖な音楽」が流れ、倒れた出演者を演出兼出演者の捩子ぴじんがゆっくりと引きずって帰っていく。虚も実も倒れた末の、虚実どちら側にも寄らず起立したフィクションの時間は、工作された劇の時間と同等にその後ろ側や隙間を注視する演出家の演劇感によって呼び込まれたこの「劇的」なラストシーンに集約されていた。

カゲヤマ戯曲のカタコト感、詳細に描かれず語られない、そのような言葉から立ち上がってくる余白の潜在が、それぞれの上演の自由度を引き出したことは確かであろう。そのことは三者による連続上演が企画されなければおそらくはっきりと見えなかった。戯曲があるという縛りとそれゆえ発見されるもの、上演とは常に可能性に向かって開かれた時間であることを再確認した企画であった。

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