台北滞在記

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4日ほど台北にいた。
行きの飛行機で『人魚の眠る家』という映画を見た。事故で脳死状態になった5歳の娘を在宅看護する家族の物語。意思で動くことのない娘の筋肉に電気信号を流し、手足を動かして筋肉量を維持し、健康状態を保っていた。母親は徐々に娘の体をうまく操作できるようになり、足を持ち上げる下ろす程度だった動作が、やがてプレゼントを両手で受け取り、口角を上げて微笑む、くらいまで操れるようになってしまった。けれど家族や友人は、脳死したはずの娘の体が動かされることをどこか気味悪く感じていた。それは「もう死んでいるはずの体を動かす」ことへの不気味さである。けれど娘の心臓は動いている。
いつしか母親と周囲の人々との思いの溝は深まり、不和が生じていた。母親はついに次男の誕生日の席で、娘に包丁を突きつけて警察を呼んだ。皆がもう死んでいると思っているこの子を殺したら、殺人になるかと問う。罪になるなら喜んで刑に服する、なぜならこの子を殺して殺人になるならば、皆は娘が生きていると認めたことになるからだと叫んだ。

映画一本見終わってちょうど台北に着いた。旅はいつも自分よりしっかりした誰かしらの道案内に任せて好き勝手きょろきょろしているけれど、今回台北もひとりで海外の空港に降り立ったのも初めてで、電車の乗り場など、必要なものばかり探さなければならない。台北は地下鉄が発達していて、チャージ式のカードを買って移動するのが便利と予習済みだった。500元でカードを買う。プラットホームは「月台」と表示されていて、詩的だ。
着いたのが遅かったので、この日はホテルの周辺を少し散策する程度だった。ファミリーマートとセブンイレブンがやたらあるけれど商品は違って、特にファミマは八角の匂いがする。まず台北を印象付けるのはそこかしこに漂うこの匂い。ホテルのタオルもじっくり嗅ぐと繊維の奥に八角の残香がある。
翌日、台湾式朝ごはんを食べに出かけた。豆漿という豆乳スープに揚げパンを添えたものが代表的な朝食らしい。あとはねぎ入りの台湾風パイ、小籠包。豆漿はしばらくするとおぼろ豆腐状に固まってきて、スープだと思ってなめていたら案外お腹に溜まる。注文したものを全部食べたら苦しくなった。腹ごなしに歩きつつ、近くの台北市美術館に行くことにした。
日韓中の女性の抽象画を集めた展覧会がやっていた。日本からは草間彌生、田中敦子など。石川順惠の絵を初めて見た。線描が重なって構成されるレイヤーの画面は、平面を一つの空間として安定させない。見ていると感覚的に動かされる。張相宜の韓国の伝統的な五色を使った抽象、薛保瑕のポロックやいくつかの過去の画家の技法を複合して描かれた大作など、見応えのある作品が多かった。他には池田亮司の個展、台湾の若手アーティストの個展も5つくらいやっていて、3時間くらい過ごせる。ものすごいボリューム感なのにチケットが30元、約100円くらいだったことが何より驚きだった。
朝ごはんに張り切りすぎたせいでいつまで経ってもお腹が空かない。ミルクティーの中のタピオカさえ胃を圧迫する。街を見て歩く。この国の人はバルコニーで植物を育てるのがとても上手で、基本上を見上げて歩いていた。
夕方5時過ぎ頃から夜市という屋台が出始める。名前のわからない丸、三角、平たいもの、煮詰まった茶色いものからおいしそうなにおいがしてくる。ようやく次のものが食べられる隙間のできた胃に、おばちゃんが白玉団子みたいな餅のかたまりを一個一個手でちぎって丸めてピーナッツの粉を入れてまぶしてくれる団子がおいしかった。

夜、台北の水源劇場でチョイ・カファイの『存在の耐えられない暗黒』というダンス作品を見た。モーションキャプチャの装置を付けたダンサーが背後にプロジェクションされる舞踏の創始者、土方巽のアバターを踊らせる。行きの飛行機で見た映画がふとよぎった。意味は異なるがこちらも「もう死んでいるはずの体を動かす」ということをやっている。けれどこの場合、アバターの土方巽があたかも生きているように降臨、というふうには見えないし、もちろんそれが意図ではない。ダンサーはアバター土方を動かす役として舞台上にいるけれど、動くときにアバターとダンサーどちらを見るかと言えば、ダンサーに目がいく。
ダンサーは過去の土方の振付をトレースし、アバター土方はその動きを受けて動く。空っぽの体が意思の外で動かされている状態は舞踏的な身体に親和しそうだけれど、アバター土方が踊る姿に迫ってくるものはほぼない。けれどこの作品は体なき今、個に宿っていた踊りは再現不可能であると結論付けたいのでもない。
ダンサーに土方が憑るということは、振付を介してダンサーのフィジカルな感覚の上では起こっていただろう。このコンセプトを実現することで、どういう身体の創出が目指されているのかが私にとって気になるところだった。作品自体にはきっといろんな批評の余地があって、舞踏や土方への思い入れの強い人、そうでもない人の間でも意見は分かれるだろう。けれど舞踏と呼ばれるものに斬り込む際どいユニークさに、日本の外から見た視線によるすがすがしさも感じた。
作品の根底には、作家自身が多大な影響を受けた土方巽へのリスペクトがあるという。作家が土方の舞踏の何に魅せられ、動きを再現するコンセプトからどのような踊りの展望を見出したのか、そのことをもう少し作品から受け取りたいと思った。
この日の夜に食べた劇場の近くの食堂のトウモロコシと骨つき肉のスープは特別おいしかった。

別のレジデンスプログラムで台北に滞在していた演出家の篠田千明と会った。私が着いたその日にレジデンスのプレゼンは終わっていたが、チョイ・カファイの上演を同じ日に見ていたので劇場で遭遇した。滞在中に出会った人たちとお別れカラオケをするから来ないか、という誘いをもらって次の日の夕方、龍山寺前の公園で会う約束をした。
龍山寺は台北最古の寺院で、「地球の歩き方」にはこのエリアは台北の巣鴨と書かれていた。実際行ってみると駅前の雰囲気は西成に近かった。駅前の公園にはしっかりしたアーケードがあって雨風をしのげるようになっている。
この日は午後から雨だった。龍山寺駅には地下街があって、占いの店とマッサージ店が多い。喫茶店などもある。小雨になるのをこの地下街をうろつきながら待った。時々しか繋がらないWi-Fiで篠田さんとなかなか連絡が取れず、公園と言っても広いのでどこにいるのかわからない。すでに約束の時間から40分経過して、若干帰ろうかと思い始めていた。待っている間にお腹が空いて、近くのパン屋で見たことないパンをあえて選んで買ってみたが、よく知っているメロンパンの味がした。瞬時つながったWi-Fiで反対側にいることがわかり、ようやく会えた。
すでにカラオケは始まっていた。歌う人はワイヤレスマイクを持ち、音源は篠田さんのスマホから、画用紙に数十曲の中国語歌詞が貼ってあり、それをめくりながら歌う。篠田さんは滞在中このカラオケセットを携えてここに通い、公園で暮らす人たちと顔見知になったらしい。おっちゃんとおばちゃんの輪の中で空いていた風呂の椅子をすすめられ私もそこに座る。公園の中にもテリトリーがあるらしい。歌っているのを聞きつけて歌いに来るおっちゃんもいる。
私の向かいに座っているおっちゃんが、しきりにそばに置いてある缶の中に茶色い唾を吐いている。何か病気なのかと思っていたら、噛みタバコのビンロウのアクを吐いているのだった。缶の中にはもう相当な量が溜まっている。篠田さんは自分のタバコとおっちゃんのビンロウを一個交換してもらい、噛みながらおっちゃんの缶に唾を吐くけれど、だいたい缶の外に飛散していた。吐くのもコツがいるらしい。篠田さんはショートパンツの素足で地面に膝をついている。脚には点々と蚊に刺された跡がある。液晶の割れたスマホもその辺に投げ出されている。この人はインディヴィジュアルだけど恐ろしく境界がない。この公園に異物のまま浸透している。アーティスト的媚態でも擬態でも慈善活動でもない。海外からやってきたアーティストがここで何かを創作したというより、そもそもずっとあった場所やそこにいた人たちが、彼女が来たことで浮かび上がって見えているという感じがする。

歌詞カードの中で私にもかろうじて歌える歌はテレサ・テンの「時の流れに身を任せ」と氷川きよしの「箱根八里の半次郎」だった。おっちゃんが中国語で歌うテレサ・テンと日本語で一緒に歌った。おっちゃんたちは仕事で朝早いので、8時前には寝床の準備を始める。
公園を後にしてひとりで地下鉄に乗りながら、さっきまでの出来事を反芻していた。
私は今回、特に仕事ではなく観光客として台北に来ていた。観光客は訪れた街のここを見よ、あれを買え、これを食べよ、というガイドブックやネットのナビゲーションのもと動き、街にお金を落としていく。私も100元あれば食べられる国で観光客しかいない茶館に行き、1000元の中国茶を飲んだりもした。観光客にはそういうことが求められているだろうし、来る方もそうやって異国の旅を味わおうとする。それも悪くない。でも観光には予定調和的鮮度というか、初めての場所や未知のものに思いを馳せつつ、結局のところ事前に得た情報をなぞって満足しているような虚しさがつきまとう。
今回出会った公園のおっちゃんたちは観光客である私と最も遠かった人たちのように思えた。台北に来てもお互いに接点の持ちようがなかったはずだけれど、あのとき特に理由なく歌っていた。
「もしもあなたと逢えずにいたら わたしは何を してたでしょうか」
一緒に歌うはずがなかった人たちとテレサ・テン。
起こるはずがない、出会うはずがなかった人たちと交差した時間が何より静かに劇的に残った。

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