THEATRE E9 KYOTO 『京都市による京都駅東南部エリア「都市計画見直し素案」を考える緊急シンポジウム』

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10月7日にTHEATRE E9 KYOTOで行われた『京都市による京都駅東南部エリア「都市計画見直し素案」を考える緊急シンポジウム』に参加した。
京都駅東南部エリアの都市計画について、規制緩和の見直し素案を京都市が急に提案し、地元住民とのコンセンサスを十分に得られないまま、計画を進める姿勢を見せたことから「緊急」に行われた。THEATRE E9 KYOTOは今年6月、東九条にオープンした民間の小劇場で、多くの在日コリアンが暮らす東九条は京都駅東南部エリアに含まれる地域である。4年後に京都市立芸大が移転する崇仁地区と共に芸術文化によるまちの活性化、多文化共生などをかかげ、住民と共に新たに若者やアーティストが移住できる地域に育てていこうとしている。

都市計画見直し素案では、住居地域であったエリアを近隣商業地域に、準工業地域エリアを商業地域に用途変更するもので、変更されると建てられる施設の種類が一挙に増え、建ぺい率、容積率も引き上げられる。そうなると店舗やホテルが建って人が訪れ、地域は賑わうかも知れない。けれど同時に周辺の地価高騰が予想され、若者やアーティストといった経済的余裕があるとは言いがたい人々が住むことへのハードルが上がること、地域に暮らしてきた高齢者の生活環境が一変する可能性がある。素案の方向性で進めようと言うのはあまりに性急ではないかとシンポジウムでは、芸大関係者、弁護士、東九条を拠点とするアーティストなどが集まり、まちと理想的な創作環境の共存とはどういうものであるか、異なる立ち位置から意見が交わされた。

様々な意見を受けて思ったことは、とにかく東南部エリアの開発は、利潤だけを求めて参入してくるものに荒らされることから土地を守り、すでに暮らす人々とこれから住まう人々、関わる人々が時間をかけて生態系を作っていける余白を保ちつつ進めることが何より大事、ということである。傍目から見て地域のイメージが改善することや、アートを表面的に捉えることなく、今ある風景を急激に変えてしまわないよう、きめ細かく進めなければならない。

都市計画について考えるとき、現在の同和地区の風景について改めて思うことがある。
私は生まれてから36年間、ずっと京都に住んでいる。京都に点々とある同和地区は市営住宅、銭湯、保育所、隣保館があって、どこも似たような風景になっている。特に崇仁地区はもともと住んでいた人に加え、戦後さまざまな事情で流入した人も住み着き、広大な土地にバラックがひしめく京都最大の同和地区だった。市営住宅の建設に際しても、土地の買収は難航し、周辺地域の住民による反対運動などもあって、一筋縄では行かなかったそうだ。

私の出身地も同和地区を含む学区だった。市営住宅に住む友達もたくさんいて、よく遊びに行ったし一帯の風景には懐かしさを感じる。かよった小学校は1867年、被差別部落の子どもたちに教育をと私財を投じて開設された私塾を起源とする小学校で、地域住民の願いを受けて同和問題と人権については6年間特に丁寧に教わった。
私の実家は市営住宅から通りを隔てた区画の一軒家だった。同和学習を進める上で、市営住宅が整備された経緯とそこに住む人々について触れずにはいられない。先生はその辺りの説明を本当に慎重に進められたと思う。今はいろんな人が住めるようになっているけれど、当時は市営住宅に住んでいるか否かで何となく出自が認識されていた。だからと言って友達には何の差もなかった。逆に言えば市営住宅以外に住んでいると、親などに教わらない限り出自を認識する方法がなかった。だから私は自分の家は同和地区の外と思っていた。
ある時、祖父から曽祖父の代まで住んだという屋敷のモノクロ写真を見せられた。その場所は現在市営住宅の建っているところで、都市計画の際に立ち退いたと聞いた。子どもの頃はぼんやりそうなんやと思っていた。同和地区の中でも地域や世帯によって生活水準はいろいろだったようで、曽祖父の家は家業を営み、生活には余裕があったらしく、屋敷も割合立派なものだった。父から聞いた話しでは、祖父が市営住宅に住まなかった理由は、特別に支援されるのでなく、同じようにやって行かなければだめだと思ったからだという。

祖父母はもう亡くなっているけれど、自分たちの来歴について何も語らなかった。大学に入っていからふと父に聞いてみたら、私には特に話すきっかけもなかったから聞くまで話さなかったそうだ。父に結婚や就職で出身地に関わる差別を受けたことがあるか尋ねると、ないと答えた。そんな訳で私が自分の家の事情をはっきり知ったのは、二十歳を過ぎてからだった。

祖父母より少し上の世代では、同和地区で暮らした人には、貧困で学校に通えず読み書きができない人も少しいて、高齢者向けの識字教室なども開かれていた。結婚は外の人とは難しかったようで、祖母も別の地区の被差別部落から嫁いできていた。父母の世代からは徐々にその境は越えられたけれど、結婚や就職に際して住所を調べられることはあったようだ。そして現在も全くなくなった訳ではない。特に結婚に際して親に反対されるケースがネット上で相談されているのを見る。以前「部落地名総鑑」をネット上で見つけたと時は愕然とした。被差別部落だった地域の住所が一覧になっていて、企業が購入し、採用時の判断材料にしていたものだ。これを売る者と買う者がいたことが信じ難い。普通に閲覧できた時期があった。そこには私の本籍地の住所も載っていた。

同和問題は様々な差別の中でも薄れつつあるものだと思う。でも忘れ去っていいことではない。小学校の人権学習の発表のことを思い出す。自分の出身について自認のある同級生が、全校生徒の前で作文を読んだ。同和地区の出身であることを表明し、でもそのことを恥じたことはない、こういう差別があったこと、まだ完全になくなっていないことは許せないし、人々が本当に平等に生きる世の中にしていきたい、といった真っ直ぐな内容だった。同級生の中には当事者として問題に向かう子と、そうでない子が必然的に存在した。私は当事者ではない者として友達の言葉を受け止めていた。
時を経て、どう主体的にこの問題を引き受けられるだろうと考えることになった。別に言わなくてもいいかも知れない。でもこの微妙な位置付けの自認をどうすればいいのか、当時の同級生の引き受け方を思い出すと、私は今書けることを書いておこうと思った。

被差別部落に暮らした人々は、ただひたすら貧しい暮らしをしていた訳ではない。古くは千秋万歳などの芸能にたずさわる者、革や石や竹などを扱う特殊な技術を持って仕事をしていた職人がいた。『蘭学事始』に日本で初めて人体解剖を行ったことを杉田玄白は書いているが、執刀したのは被差別部落に住む老人で、名前すら記録にない。社会生活を機能させる上で、誰かがやらなければならない底の仕事、血や死に触れる「ケガレ」引き受けていたことや、独自の生活様式が根付いていたこともまた事実である。

市営住宅が整備され、それによって住環境の安全と衛生面が改善されたことは間違いない。けれど整って見えるようにしてしまった、という側面もきっとある。それまでの隣近所のつながりや生活感、風景は一変し、失われたのだろうと想像する。同和地区の全員が市営住宅の建設を歓迎した訳ではないだろう。現在崇仁地区に点々と残るフェンスに囲われた空き地には、さまざまに入り組んだ事情の跡を感じる。
これから崇仁地区や東九条が変わっていくのなら、それまであったものを断ち切るような仕方ではいけない。上書きして消してしまって無かったことにしないように。好立地に乗じて金儲けを目論むものに食い荒らされないように。そしてアートに過剰な期待をせず、発生するものを待ち時間をかけて育てて行かなければならないだろう。

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