寝つきの悪い子供の思いで

netsuki

その頃3歳下の妹はまだ産まれていなかったから、これは3歳より前の記憶ということになる。私は寝つきが悪かった。
当時住んでいたのは社宅のアパートの二階で、南側の青いカーペットを敷いた六畳間に布団を敷いて父私母の並びで川の字で寝ていた。六畳間の横には木目調の床の台所と居間があり、その先の三段だけの階段を上がると短い通路になっていて、左の壁面にトイレ、右に脱衣所とお風呂、さらに進むと左側に玄関があって、いちばん奥の突き当たりにもう一部屋、母の嫁入り道具の鏡台が置いてあるくらいで特に何もない六畳間があった。

ある夏の夜、雷の音で目が覚めた。豆電球の暗い部屋が時々かっと光り、雨音とごう音が窓ガラスの境界を犯す勢いで響く。暗いというだけですでに夜はこわかったからそんな夜はもちろんこわい。こわいと思って横にいる母にすがりつこうとしたら母がいない。寝返ると反対側の父もいない。タオルケットから上半身を起こす。居間も電気が消えていてふたりの姿はなかった。
廊下の先に明かりが見えた。いちばん奥の部屋から漏れてきている明かりだった。ひとりではこわくて寝られない私は奥の部屋に向かう。けれどそれよりこんな嵐の夜に放っておかれていると思うと悲しさのほうが込み上げてくる。うす暗い部屋を手探りで進んで短い通路の突き当たりの部屋の前、つまりそれは玄関の横でもあって、玄関マットの上にたどり着いた。私はなぜか玄関マットが好きだった。初めて足で立ったのも玄関マットの上だった。
引き戸が少し開いている。雨音がうるさいけれど耳を澄ましても中からは話し声も物音も何も聞こえない。何かその部屋に無造作に入っていくのは子供ながらに気が引けて、しばらく玄関マットの上にいた。玄関マットの上はどんなときでもちょっと落ち着く。それがどれくらいの時間だったのかはわからない。子供の忍耐だから3分も経ってなかったかも知れない。けれど躊躇の時間があったことは覚えている。布団に戻っても眠れないし気にもなる。やっぱり部屋に入っていくしかない。それで引き戸を開けた。
父と母はいた。ふたりは並んで壁にもたれて座っていた。下着は履いていた。部屋にはなんとなく気だるい雰囲気が漂っていて、それがなんの余韻なのかわからなかったけれど何かがいつもと違うのはわかった。ただ私はそれを知らないというのはわかった。急に入ってきた私にふたりは普段のおとうさんとおかあさんが間に合わない。その頃のふたりの年を計算してみたら26、7で今の私より若かった。
私は私に隠されて立ち入れないものがふたりにはどうやらあるのを察知して、雷のなか放っておかれたことと相まって悲しくて腹が立つ。それで当たり障りのない質問をした。なんで服きてないの。母は洗濯して乾くのを待ってると答えた。それが嘘だということくらい即座にわかるし、しかも通じると思ってそう言っているのかと思うとよけい腹が立った。私は寝ている部屋に戻ってタンスから寝間着のTシャツとズボンを選んで持ってきてふたりの目の前に置いた。服はあるでしょ。父と母と私の間にどうしようもない感じがしばらく流れた。
記憶はそこで途切れている。たぶんそのあとふたりは服を着て父と母の顔を取り戻し、私を連れて布団に入り私を寝かしつけたのだろう。
この記憶は私の中で何度となく再生されていて、30年以上経った今もわりと鮮明な体感を伴って思い出せてしまう。今こうして書いてみると微笑ましい話のようでもあるのに、子供の頃の私にとってこの出来事はその後もずっと付いてまわり尾を引くひとつ屋根の下の憂鬱の始まりだった。

寝つきの悪い子供はその後も何度となくそういう場面に出くわす。
両親の仲がいいことは子供にとって幸せに違いないのにそうは思えない。これは単純で子供らしい父への好意に由来する母への嫉妬、なのだろうけれど、私にとっては縁の下に隠された根の絡んだ問題になっていた。自分が母の代わりをすることは出来ないことも知っているし、そんなことは脅威で、ただ私にはどうしても私に対して嫌なことをされているという認識になってしまい、父と母はそれをやめないしやめられない。
大体そういうことがあるのは休日の前の夜が多いので、翌日は家族で出かける予定だったりする。寝つきの悪い子は眠れない。起きて声を聞いてしまえば火の着いたように泣いて中断させ、泣き止まず手こずらせて泣いている理由も言わない、撫でようとする手は払いのける。次の日家族で出掛けても終始不機嫌だった。けれど小学校3年生くらいになるとなんとなく、私が存在していることもそれに起因しているらしいと薄々気付くようになり、自分がいること自体に逃げ場のない嫌悪感が並走するようになった。じゃあどうすれば親は悲しむだろうかと考えたりするようになる。テレビで見た。洗面所の剃刀を手首の上で引いてみる、赤くはなるけどなかなか切れない、いた、何回かなぞっていると血がにじむ、転んで膝をぎたぎたにしたことはなんどもあるけれど自分でわざとやろうとすると皮一枚でこんな痛い、くやしい痛い、痛いのでやめてほしいと体は言う、痛いくやしい。あなたたちの愛によって作られた私はあなたたちの愛のせいで死にたくなるのをどうしたらいいですか。タイムマシンで当時の私に会いに行き、そんな思い詰めることないアイス食べようアイスと言っても聞き入れてもらえないほど切実な問題だった時期がある。

コンドームがどのゴミ箱に捨てられるのかを知っていた。ティッシュの案外重たい団子状をひらいていくと徐々にべたべたして真ん中から伸びて死んだようになった黄みどり色の抜けがらがあらわれる。魚類の生ぐさいのとも違う生っぽいにおいは嫌なにおいじゃない、すごく知ってる感じと全然知らない感じの混ざった未知の芋、生きものの高濃度で体になる前はみんなそういう流出液体。ほら液体にもすでに体が仕組まれて、あるいはティッシュに吸われていたかも知れないその方がよかったかも知れない私はどうしてここにいてこういうことを考えなければいけないこの形、体にいることになってしまっているのか本当に意味がわからない。

隠そうとされるものに対してはたらく無駄な過敏さは厄介で、使用済みが発見されるのだから使用前の隠し場所もわかってしまう。1ダースが3箱まとめ買いされていたのを見つけ、それから数日学校に通いながら教科書をひらいては国語の時間も算数の時間もどうしようかと考えていた。
ある日学校から帰って隠し場所から薬局の茶色い紙袋のまま、さらにその上からスーパーのレジ袋に入れて3箱をリュックに背負って遊びに行くと言って出かけた。それでそのままいちばんよく行く公園の金網でできたゴミ箱に捨てた。ブランコにゆられ時間を潰して平行を目指し最大限に漕いで酔って飽きて夕方家に帰った。
3ダースこつ然となくなったことは夫婦のあいだでどう話されただろう。犯人が私だとわかっていてもそれを私に直接咎めることができないとわかっていながら母が作るハンバーグ等を食べて大きくなった。
一度怒った母がこの子は一度病院に連れて行くと口走ったことがあって、それを聞いてやっぱり母はいくら自分の娘だからって何もかも許せるのではなくて、私の所業に耐えているのだと思った。そのくせ私は蛍の墓を見ればもしあんなふうに母が死んでしまったらどうしようと母にしがみついて泣きながら寝たりする。

もちろんゴミ箱を漁るようなことばかりやって子供の頃を過ごしたのではなく、一輪車を乗りこなすことに夢中だったり、学級委員をやったり、あまりにきれいなホログラムの折り紙を友達の机から盗んだり、児童館で裸足のゲンを読んで人類は早く滅んだほうがいいと思ったり、卓球したり、ひな祭りの給食にだけ出てくる菱形の三色ゼリーを心待ちにしている、要するに子供だった。
中学にあがってからは意識が家の外に向かって、そういうこともしなくなった。
私は今両親が好きであるし、感謝している。

忘れていいようなちょっとした出来事を執拗にくり返し、反芻するうちに強化されたエピソードは記憶の中で誇張されやがてそれが骨になる。そうなってしまったことをもう引き受けて動悸するしかない。例えばこんなふうに書いたり、描いたり何事かをする必要は、自然な心臓の動きだけに任せておいても見つからなかったりする。動機というのは記憶から揺さぶり起こして造り上げる致し方なさを含んだある種のフィクションで、表現されるもの自体への創意工夫の前にどのような動機を持ち得るかがその大部分にかかってくるように思う。

トレーシングペーパー ≒ 2

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先週離婚のことについて書いたらいくつかの反応を受け取ったりした。
もちろんあそこに書いていることを読んでいくほど淡々と別れたのではないし、結論に至るまでに夫婦をやり直すために持てる愛情を全弾投げて試みた時期が当然あった。私に備わる全機能を駆使し、体も言葉も尽くしたし、みじめな思いもした。言いたくないことを散々口にした。水すましのようにすいと泳いで落ち着きのいい結論にたどり着いたのではない。人から見れば美談のようにも取れるであろう考えに至るその裏には、そう考えるしかなかった道筋と理由があった。
私は誰に押し付けられたのでもなく一緒にいたいというお互いのわがままで結婚という制度にのった。漢字にした方がわかりやすい我が儘、のはてに皆さんの前でそう宣言したくなって、結婚するということにして、そういう約束をしたのだ。安定した生活とか円満な家庭を築くよりもまず自分たちのやりたいことをやって生きたかった。それをお互いに許すパートナーとしてこの人といればなんとかなると。だからしたいことがあったらそれはすべきであることは確かだった。
私はただ私のわがままで信じて傍にいたかった。けれど自由な心のありようでは相手といられなくなったとき、何かを許せなくなって相手に制限を要求せざるを得なくなったとき、同時に私は同じくらい相手に対してそれをしたくない。その上で一緒にいるというのがいやなのだ。だったら何も制限しなければいい、そうして何事もなかったように日々を続行すればいい。そのうち心は静まってもとのようになるたかがこんなの大したことじゃない。どうしてもそう考えることができなかった。どうしても耐えるという意識を持たずにいることができない。この耐えなければいけないということは、日常生活にある相手へのちょっとした不平不満をがまんするのとは質が違う。相手が思わぬ病気や事故で得てしまった困難を一緒に耐えることも違う。それは申し訳ないけれど飲み込んで今後も一緒にいてくれと鉛を渡されることで、その重さは引き受けるということなのだろうけれど、私はそうやって自分の重量が増すことが耐えられないし、鉛を消化する酵素も持っていない。
鉛を飲んでもそれに慣れたら、耐えたことをよかったと思えるようになる、平穏無事はやはり幸せと考えるようになる、今までよりよくなったかも知れないとも思えるようになる、私にはこの人しかいなかった。それを真実として生きる方法もある。けれどそれを取るなら知らぬまに設置されている、ものわかりのよいできた妻、の像に自分をあてはめてその型の内に納得しようとしていないか入念に自分の心を探る必要がある。

私にはいやなものはいやだと言って聞かないものがあった。いちばん自分が自由に躍る方向に行きたい、体に閉じ込められているのは耐えられない、というものが私の中にはずっとある。
相手がしたいことをして、そのありようを耐えずにいるためには物理的に離れるしかなかった。
したいことはすべきで、何も耐える必要はない。
それがしたくなかった相手に対する制限と疑念に血眼になってなんにも見えなくなった視界の先に見つけた答えだった。こういうことを言い出すと、結婚なんてすべきでないとか言い出しそうだけれど、そうは思っていない。友達がそれを決めたらいつでも心から祝う。一生一緒にいてもいいと思える相手に出会えたことはすばらしいに違いない。結婚は制度だけれど、制度のすべてを枷だと思い込む必要もないし、結婚を契機に腹を据えてやり遂げられることもきっとたくさんある。

結婚した相手は表現活動にたずさわる戦友でもあったから、生活の時間以外にも共有する場があった。同じものを見ても話せば思考は倍動かされたし考え方にも影響を受け、私には見通せない距離から物事や人間を俯瞰して作品を導けることに尊敬があった。創作に関することを邪魔立てしたくなかったので細かいことには口を出さなかった。私はある部分夫婦でいることを守るよりそれを優先してしまっていた。
好きになる相手はいつも何かに突出した感覚を持っていて、まずどうにか同じフィールドに立てて、話したり影響し合ったりするに敵う相手になりたくなる。先立つのはそういう感情で、そうじゃない恋愛の仕方はよく知らない。自分を変容させるまでに欲望を掻き立てられて、何かをできるようになってしまったり、何かを作り出したりしてしまうようなことが私にとって人を好きになることだった。そういうことと恋愛をはっきり分けることができない。

年を重ねるにつれて人に慣れてましになってきたけれど、人全般に対して根拠のない生来的な苦手があった。距離を縮めることがうまくできないし触ることも触られることも難しい。若い頃はその性質に足を取られて水面下で悩んだけれど初期設定なんだからもう仕方ないと思って生きてきた。だから触れ得た人というのは、誰にとっても特別であるに違いないけれど、やはり特別で、芯からいとしいものだし、情欲も強いという意味で体に対して泥臭く欲深い。何が起こってもさらっと受け流せる質の女では資質としてもまったくなかった。

したいことはすべきで、何も耐える必要はない。
やりたいことをやって、好きなように好きな人と望むようにあるべきだ。
私は好きな人とただわがままで一緒にいたい。このことを諦めたり耐えたりすることができない。けれど相手を紐で結わえておくことも、接着剤で頭を固めておくこともしたくない。それをするくらいなら一緒にいない方がいいと思っている。このふたつのあいだには矛盾が横たわっている。わかっている、これもただのワガママだ。けれど私はそれを通して生きることだけは決めた。
ワガママついでに布団を体温で温めてもらいたい、首の辺のにおいを嗅ぎたい、喉仏をなめたい、肌に触りたい、セックスしたい、傍で眠って目覚めたい、9時よりはやくに起きたくない、おいしいものや普通の食パンを食べたい、マーガリンがなくなったら次からはバターにしたい、朝コーヒーを淹れてほしい、夕食後はお茶を淹れます、トイレットペーパーが補充されている、映画館や劇場に行きたい、見たものがつまらなかったら口なおしにおいしいものを食べ、おもしろかったら安酒でそのことを肴に盛り上がり、あるいは打ちのめされて無言で、ハーゲンダッツを買って帰る、私がいるということで私を忘れて集中すべき仕事に向かってほしい、私もそのようにありたい、書きたい、描きたい、踊りたい、街のにおいも山のにおいも海のにおいも嗅ぎたい、本も読みたい、ばらが咲くのを見ていたい、五感を使い尽くしたい、いろんなことを知りたい、生きてしまっていることをずっと、かんがえ続けたい、もっと、全部のことを、やりたい、
人を好きになることが生む動力を信じているし、最大限生きるために私はそれを必要とする。手前勝手な理想だろうか。そうかも知れない。けれど知らない。知るか。私はわがままにしか人を愛せない。

この惑生探査記は日々の徒然をつづる穏やかなコラムだったのに、避けていた私という語を連発し、愛と言いだしている。
探査機がこっちに向かってくる。あんまり近くにこないでほしい。

トレーシングペーパー ≒ 離婚届

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昨年、人生のなかでしないだろうと踏んでいた離婚というものを、した。
一度は添い遂げる気持ちで一緒になった相手と過ごした10年あまりの時間を思えば、決断に至り実行するまでには感情のぬかるみに足を取られながら気の遠くなる振れ幅の緊張と虚脱を行き来した。

離婚するということは何よりいつくしみ整えてきた生活のコンポジションと暮らしの肌理を失うことだったから、選んだとはいえそれ相当の喪失感を味わうことにはなった。結婚にもきっといろんな形があるので私に書けるのは私にとっての、ということになるけれど、私にとっては約束と信頼に担保される自由に基づいて生涯の伴侶としてお互いがあることで充実し、深く生きることが何より大切で、相手のことは信じ些末なことは手放していたところがあった。実際そのように居ることが長い間できていたし、それが続けばいいと思っていた。

あるときどうしてもそれまでのありようを阻害する意識を拭い去ることができなくなった。そうなると本来望まない疑念と執着に襲われる。
子供をもたなかった私たちのあいだにあったものは、相手と過ごす時間のなかで自分自身を育み暮らすささやかな日常だった。孤独や不安にできるだけ振り回されずものごとを見つめ、創造的に生きる地盤をもつために一緒になったのだ。
できる限りの立て直しをはかったけれど起こったことは消えず、それ以前には逆立ちしても戻らないという当然さへの岩のような絶望感に心身は塞き止められ、よどんで膿んでいった。陥没した心は人を貶めてでもその穴埋めをしようともがいて悪しきアイデアを次々と発想し、同時に実行しようとするのを制する努力を走らせた。暴力的になっていい正当な顔つきの理由をまとって権力らしきものを振るえばその味を占め、そういう快楽があることも知った。
客観的に見ればそのときの私は、覆水で練った覆面をつけて返らないものをこれ見よがしに見せつけるような喜劇的状況で、処理能力の追いつかない感情に見舞われたときの人生における演劇的発露の必要性、などという言葉をよぎらせていた。そうしなければ追い出せないものが蓄積する体の自浄作用のようでもあった。
私に備わる全機能が一点の事柄に従事するため、勘の精度は鋭さをいや増して、知りたくないことを的確に感知してしまう。弛めておくことができなくなった感覚は硬直し、それ以外のことに関するディテールを拾い上げられず詩の言葉は出てこなくなったけれど、「地獄の季節」というランボオの詩集のタイトルが今の私の時候を言い当てているわと、そんなどうでもいいことを本棚を眺めて思ったりしていた。

まもなくそんな状態からは脱したいと思うようになった。とにかく美しくなかったから。そんなことに占められて時間を食い潰す自分でいることは何より耐えがたいのに、湧いてくるどうしようもない思念からはどうにも逃れられず、逃げ場のなさに狂ったように泣きわめいてみても、そうなっている自分もどこか芝居がかって見えてくる。この感情はさほど自分のものじゃないしこれは私のことではなくて私はつまり私じゃない。こうやって人は自分の破綻を防ぐのか、これが常態化することが破綻なのかどっちだろうと思っていた。かといって感情のコントロールはきかず、束の間なだめられても起こったことへの根本的な始末のつけ方を心得ない言動に疲れ果てていった。これまであらゆるときに励まされた音楽も言葉もばらも猫も香りも効かなくなっていた。

空白のような休日にひとりだった。漠然とどこか遠くに力ずくな速さで行ってしまいたくなって、あてのない宙ずりの足取りにまかせていたら新幹線に乗っていた。行き着いた場所で人に会いたいと思った。唐突だったけれどその日会える友人がいた。
そこで起こったことは性分から言ってはみ出すことだったし、自分でもにわかに信じ難い不可抗力に動かされた出来事だったけれど、私はもうそれくらいに維持されていた私の形状から押し出され傾れかかって自力で立てる気がせず、受けとめてくれる人をたぶん自分で思うより必要としていた。そんな脆さは追いつめられてようやく知る性質だった。もとあったものがずれて動いたその余波は友人同士であった関係を一変させた。もちろん誰でもよかったわけではない。そのとき差し出されたいくつかの言葉を持って帰る道すがら、そのなかのひとつに自分がまた新しく動き出せる芽を感じた。

日々はこうあってほしいと願う未来のための小さな一手の積み重ねで、選択肢を前に願う未来の気配が漂う方向へ、不確かながら身を投げる。一手から起こった動きはどこかではね返り響く。人や状況の綾をくぐり抜けて屈折し、まるで発端と結びつかないようなものが化けて出ることもある。ほとんどのことはそうやって偶発的に響いた結果なのかも知れない。どのようにあっても体は、心は打たれれば響き、その反響自体はとめられない。
私たちは誰もが人の間から発生した生きものであるけれど、生まれつき誰からも分かたれてこの体にひとりある以外に仕様がなく、私は隔たってあるからあなたに触れうる。この孤独は血の通った幸福だと言えるよう、自分や相手を苛む執着をすることなく人とありたい。支配も管理もすることなく。だから、傍に居ないということでしか相手を想い尊重できなくなったとき私は手を放すしかなくなる。傍にいることでお互いのあいだによい動力を生み出すことができるなら共にあることを望み、守る。

離婚届はどういう意図なのかトレーシングペーパー並にぺらぺらの紙で、かばんに入れているとくしゃくしゃになって破れそうに危うく、持って歩くのが億劫だった。婚姻届はどんな厚みの紙だったか思い出せないけれど、結婚したことも離婚したことも後悔はしていない。
人の心も体も動くときには動いてしまうし抗えないものがある。どうあれこれは誰のせいでもなく、私はただ何も諦めることができなかった。

白粉白書

oshiroi

そういえばいつからかだいたい毎日化粧をするようになった。することが普通になってからはしないまま外に出ると目鼻を描き忘れて家を出てきた心地がして落ち着かない。
もっと若かったときはそういう、化粧するの当然みたいな出来上がった顔にもの言いたいような心境で、眉毛とまつ毛を全部抜き去って殊更に欠落した顔で歩いていたこともあったけれど、多少歳を取ってそういう気持ちは様相にそのまま反映させなくてもいいと思えるようになった。今では無碍にしていた眉毛とまつ毛にお詫びのしるしに育毛美容液を塗っている。

化粧品といっても安いものから高いものまで幅広い。アイシャドウやチークは百均でも百貨店でも買える。
あんまり安いものを使うと貧相な気持ちになるし、だからといって高価なものはこんなちょっとしか入ってない粉が一万円近くするんですか、ねえ、と思ってしまって気が引ける。
問題はどういうものを納得して自分の顔の構成要素として使えるかというところにある。安いものでも高いものでもファンデーションやアイシャドウは主にタルクやマイカという鉱物の粉でできていて、酸化鉄、水酸化クロム、グンジョウなどで着色されている。粒子の細かさなどで若干値段の差はあるけれど、どう見積もっても例えばアイシャドウの粉の部分だけでいうなら材料費は百円かからない。
なぜそういうことに詳しくなったかというと、納得して使えるものを探した末に自作するのがよさそうというところに行き着いたからだった。
ファンデーションのベースにするのはマイカという雲母の粉で、これはキラキラしている。マットにしたい時はセリサイトというラメのないマイカを使い、そのふたつを混ぜてもいい。そこに日焼け止め効果のある二酸化チタン、酸化亜鉛というのを混ぜたり、皮脂を吸着する無水ケイ素を加えたり、肌につやの出るシルクパウダーを混ぜたりする。それらの粉は全部白いので、肌に馴染む色味に近づけるために黄色、茶色、赤の酸化鉄の粉を耳かきくらいの細い匙で少量ずつ加え、乳鉢と乳棒ですり混ぜながら手の甲に粉を乗せて色味を調整する。出来上がったらパウダーファンデーションの容器に入れてパフかブラシで肌にのせる。これはいわゆるミネラルファンデーションで厚化粧には向かないけれど、クレンジングを使わなくても普通の洗顔で落とせるのでとても楽。
アイシャドウやチークは買ってもそうだけれど、ひとつあったら1年くらい使えるので、いつも年初めに今年のアイシャドウとチークを作ることにしている。季節によって鮮やかなブルーやグリーンに手を出したくもなるけれど、結局そういう色はほとんど使わないので、使用頻度の高いハイライトになる色とブラウン系の濃い色と遊び色を一色、ひとつ金皿にまとめて作る。その年の自分の顔色をうらなうという気持ちで調合する。
そういう誂えた色を使うよろこびもあるけれど、時にブランドロゴが謂われのない自信をもたらしてくれることもある。そうなったら原材料がいくらかみたいなケチな話しではなくて、やっぱり口紅は黒い艶と重みのあるロゴが入ったパッケージのものをアイテムとして持っていたいと思ったりする。塗ったらそれがどこの口紅かなんてわからないけれど、無言で唇に加勢される謂われのない自信によって言える台詞、叩ける大口だってあるし、自作自演の目の色で世界をまなざせるよう願ってみたり、化粧にはそういうまじないや術のようなところが本来的にあったのだからこの思い込みはあながち間違っていない。
ナチュラルに毒されず、ブランドの誘惑には微笑み返し、流行の波打ち際で、世界に散らばっている私らしき断片を探し当て、身繕うのはおもしろい。

酒粕心身

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板状にしていない地酒のずっしりした、いかにも絞りたてに見える酒粕が袋で売られているのに出くわすと、まだ家にあるのに思わず買いそうになってしまう。お酒の風味は好きなのにアルコールには弱いので飲めないぶんの日本酒欲は酒粕に注がれる。それに酒粕のような主目的を得るために出た副産物やカステラ切れ端、割れせんのようなどこか欠けていたり端っこだったり残ってしまうものにどうも心惹かれてしまう。
買って帰ると一度鍋に全部入れて少しお湯を入れてふやかし、弱火にかけて柔らかくする。やりすぎると香りもとびそうなのでゆるい味噌のようになって少しアルコールがとんだくらいでやめて、タッパーに入れて冷蔵庫に常備する。こうしておくと使い勝手がいいし、甘酒のようにして飲んでも酔わない。酒粕で作る甘酒は気分により濃い方がいいときとあっさりしていてほしいときがあって、好きな量の酒粕ときび砂糖を湯のみに入れ、沸かしたお湯を注いで混ぜる。そこに少しだけ牛乳を足す。冬場はだいたい毎日これを飲んでいる。日本酒は肌にいいと聞くけれど、酒粕のおかげなのか真冬も肌が乾燥せず調子がいい。栄養豊富な食べ物だから肌にもいい影響をもたらすはずと以前試したことがある。
珈琲ドリッパーにフィルターをセットして、そこに酒粕を適量いれて精製水を注いで一晩くらい置いてゆっくり漉してそれを化粧水として使ってみた。すこし白く濁っていて酒粕の甘いにおいがする。使っているあいだ劇的に肌が白くなりましたということもなかったけれど、それとスクワランオイルで十分保湿できたので案外使える化粧水だった。ただ保存料を使わないと10日ほどしか日持ちがしない。こまめに作るのが面倒になり、ちょうどその頃に酒粕の旬も終わったのでやめた。
粕汁には家によっていろんな塩梅があるだろうけれど、昆布と煮干しでしっかり出汁をとっておけば、鮭や豚肉をいれなくても大根、人参、ごぼう、油揚げさえ入っていればいいと思う。粕汁にはこんにゃくが入っていることが多いけれど、汁物に入っているこんにゃくにあまり興味がないので省いている。
カレー同様翌日の方がおいしいので鍋いっぱいに作っておく。ねぎかみつば、七味もいいけど胡椒も合う。酒粕を使ってクラッカーを作ってみたら、作った本人すらチーズだと信じて疑わないチーズ味だった。ピザ生地を作るときに混ぜ込むと発酵した風味が加わるのでイーストを使わなくてもベーキングパウダーでおいしくできる。これは伊丹にある酒蔵に併設されたレストランの酒粕ピザからあやかった知恵。
もうひとつ簡単で好きなのは食パンに酒粕を塗ってトースターで焼き、それにはちみつを垂らした酒粕トースト。マーマレードでもいいし、輪切りにしたドライ無花果をのせると朝から一気にお洒落な感じになる。そして気分だけほろ酔いになって仕事に向かう。

赤飯はじまり

sekihan

コンビニでおにぎりを買うとき選んでしまうのはだんとつに赤飯で、けれど思い返すと赤飯は、何かのお祝い事の折にパックに入って南天の葉が添えてあって、握られているものではそういえばなかった。
ハレの日の食べ物だったはずがコンビニのおにぎりの棚に大概ちゃんと並んでいるし、別にめでたくなくても小銭があれば食べられる。どこのコンビニにでも商品化されているくらいだから、私以外にも赤飯を頻繁にもとめる人は一定数いるのだろう。
つい先日も家に帰り着くより先に空腹に耐えきれなくなってコンビニで赤飯おにぎりに手を伸ばし、このまま赤飯をこんなふうに雑な食欲にまかせて日常に均してしまっていいのだろうかとふと思った。
年配の方と話していたときに、おついたちやな赤飯や、と言われたことがあった。月の初めに豆に働けるようにと赤飯を食べる風習が商家ではあったらしい。そうやってついたちに気持ちを新しくひと月をはじめるのは良さそうだし、シンプルに均質にいろんなことが過ぎ去るよりは、いちいち門をくぐるようなことがあった方が視界もあらたまるような気がした。それでもち米と小豆を買ってきた。1月のついたちはもう過ぎたので、2月1日から赤飯はじまりを実施しようと思う。

初経を迎えたらお赤飯、という風習は20年以上前の私が10代の頃はまだ聞いた。今はどうなのだろう。
ある日何の前触れもなくそれは訪れたけれど、3つ下の妹に先を越されるくらい遅かった。周りの友達も既になっているのに自分の体はいつまでたっても血の気配から遠く、月の巡りに参入した女子たちはどことなくしっかりしていて、それに比べると自分の体は薄っぺらく感じられた。そのことが少し負い目のようにもなっていて、なんとなく母にきちんと報告もしないままひそかにスタートをきってしまった。だから妹の赤飯を食べた覚えはあるけれど、自分の赤飯は食べていない。
気付いたのは学校で部活のテニスの試合が終わったあとだった。自分がまだだということはひた隠しにしていたため、皆がやってるあの、生理用品貸し借りの儀をすべき時が自分にも訪れたことが初経自体より喜ばしかった。
もう何度も同じことを言ったことがあるかのように、余計な緊張をしないよう、ごく自然に、周りにあまり人がいないタイミングを見計らって、仲が良すぎも悪くもない友達に狙いを定め、その台詞を告げた。友達はあるよとやや内密な手つきでスヌーピーのポーチから折りたたまれた白い四角を取り出した。大っぴらに見せてはいけないパスポートを手にした感じで、素早くスコートのポケットに突っ込みトイレに走った。

正月召喚

クワイ

引っ越した家の玄関ドアには駅前の平和堂で買った小さい正月飾りがぶら下がっている。アパートはどこも同じ玄関で暮らしの表情が見えにくいし、正月も積極的に呼ばないとちゃんと正月の顔をして来ない気がしてくる。

妹が学生の頃バイトしていた飲食店で、炊き合わせの中に入っていた見慣れない形のものを若いお客にこれなんですかと尋ねられた。同じく若かった妹もその名前を知らなかった。少々お待ちくださいと戻って手をグーにし人差し指を立てて少し曲げその形を出来るだけ再現し、これなんていうやつですかと厨房でたずねたら爆笑された。それを聞いて以来クワイを見るとどうしても手をそうしたくなる。
今年クワイよりもさらに奇妙なチョロギというものにおせちではじめて出くわした。赤い巻貝みたいで貝類に見えるくせにじつは根菜だった。

大みそかは特に初詣に行ったりもしないので、紅白を眺めていたらそのうちゆく年くる年が始まって年を越した。寒い夜中に初詣に並ぶ人たちは寒いし混むとわかっていながら行くのだから、それでこそなところもあるのだろう。
年越しを過ごす実家からわりと近くの平等院が映った。鳳凰堂の阿弥陀如来のまわりを舞う雲中供養菩薩はひとつひとつ楽器やいろんな道具を持っていてポーズがおもしろいし、とにかくみんな雲に乗って飛んでいるのがおもしろい。

ある年の元旦、積極的に見ていた訳でもなかった箱根駅伝の中継で、先導する白バイの人が紹介されて、読まれた名前に聞き覚えがあったのではっとした。白バイの人は同じ幼稚園に通っていたひとつ上の男の子だった。これまでに出会った珍しい苗字ベスト3に入る変わった名前だったので覚えていた。それにちょっと好きだった。その子の家は近所にあった警察の官舎で、お父さんが警察官だった。父の後を追いかけたのだなと本人の知る由のないところで白バイに乗る姿を見ながらしみじみ思った。

年が明けてはじめてした具体的なことは、穴を掘るだった。引っ越した家の狭いベランダに置ききれない植物を近くの公園の草地に植えに行った。掘ってみると土は案外かたく、細いゴボウくらい立派な何かの雑草の根が四方から突き出してくる。移植ごての先で根を断ち切りながら深く掘っていく。新春爪の先に土が入る。蔓を伸ばすものはフェンスのそば、雨に弱いのは大きな木のかげ。日差しがあって元旦のわりに暖かく水をやると緑が映えた。カラになった植木鉢を抱えて帰り黒い手を洗い白い餅を食べた。

火の手

hinote

夜、消防車が立て続けに4台くらい近くを通ってわりと大きな火事と思っていたら、窓の外が赤いランプでチカチカして人のざわめきが聞こえ出した。まさか引っ越したばかりのこのマンションの一階にある飲み屋からじゃないだろうなと窓を開けて下を見ると、消防車がホースを伸ばしている。でも火は一階からではなくて、別の方向から煙があがっているのが見えた。すぐ近くの家が燃えているらしかった。
霧のような細かい雨が降って外は年末らしく冷えている。降りて見に行ってみると、隣近所の住人たちがスウェットにつっかけなどを履いて寒そうにしながら同じように集まっている。民家の密集した住宅街の一軒、白い家の隙間から炎が漏れていて、ものすごい量の煙がのぼっている。銀色の消防士がふたり隣の家のベランダからホースで家の中の火を消している。夜の暗さとトーンの違う黒煙が夜闇に混ざっていくのを見上げていたらひとりのおっちゃんが人々の溜まり場になっていたガレージで「見せもんちゃうで、野次馬帰れや」と叫んだ。

うちに帰って部屋のドアを開けると煙のにおいがしている。閉め切っているはずなのに玄関や窓の隙間から煙は侵入してくるらしく、誰かの生活の燃えたそのにおいを呼吸しているとなんとなく不穏な気持ちになってくる。たまたま昼間に買ってきたお香があったので火をつけて煙で煙をなだめてみた。
湯船にお湯を張ったらお湯が少し茶色く濁っていた。消火活動のために水道管が非日常的な容量で使われたなどの理由で錆が剥がれて流れてきたのか、と想像したけれどなぜなのかはよくわからない。
台所の流しからは濁りのない水が出た。お茶を淹れようとやかんに水を汲みガスコンロに火をつける。五徳の上でおとなしく燃えている火は煮炊きのための従順な中火の顔をしているが、実際のところ火というものはその気になればこの部屋も私も燃やすことなんか造作もないのだった。五徳に座した火は火事の火とは違う青をまとって水に熱を手渡している。水が熱に耐えきれなくなって踊りだす。その勢いでほうじ茶を淹れる。
日付が変わっても無線でしきりに何かを連絡しあっている声が外から聞こえていた。

巣づくり

sudukuri

しばらく住まれていなかった家の、何の、というでもない住人不在のにおいのする部屋。窓を開け放って澱んでいた空気を動かす。仮死状態だった部屋が少しずつ息を吹き返して蘇生する。
床を拭く。きれいなように見えて雑巾を裏返してみると真っ黒い。部屋の隅の埃には前住人の体毛がまぎれている。床の拭き掃除をすると新しい部屋のかたちに自分が添っていく感じがする。
段ボールの積まれた見慣れない部屋に前の家から運んできた冷蔵庫とか机とか、見慣れたものが混ざっていて既視と未知の隙間にいる。

新しい自転車のハンドルの角度とサドルの高さで胴体のバランスが新鮮な塩梅になっている。新品タイヤと初めて通る道との接触。自転車でイヤホンはダメらしいけれど、帰り慣れた道なら自転車の時間は音楽を聞く時間だった。不慣れな道だと視聴覚を全面外向きにしておかないと不安で、そのうえ乗り慣れない自転車だと、何気なくこんな薄っぺらい車輪の上に平然と乗っていることまでもが不安になってくる。

水道、電気が通って、ガスが開栓される。目下の課題は洗濯機の設置を自力でしなければならないこと。蛇口と洗濯機を接続する部品をホームセンターで探してきて、説明を読みながらどうにかつなげた。それでいざ洗濯してみたら蛇口自体が劣化していて水圧に耐えきれないらしく、見過ごせない勢いで水漏れするので結局水道屋を呼ぶことになり、買ったばかりの部品ごと蛇口の部品を交換された。
カーテンは品番を間違って注文してしまって、選んだのと全然違う柄のものが届いた。けれど悪くないように思えて試しに吊ってみると、最初から吊ってあったようにすっと部屋に馴染んだのでもうそのまま。
椅子に乗って押入れの上の天袋を覗いたら布と丸いものが散乱していた。丸いものはCDで、手を伸ばして引き寄せたら盤面の裸の女の子と目があった。アダルトDVDだった。それが数枚と黄緑色のカーテンがなぜか片側だけ、前住人の置き土産。