映画「だってしょうがないじゃない」

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坪田義史監督の「だってしょうがないじゃない」を見に京都シネマに行った。3月の中旬。映画館へ向かう途中にある小学校では早咲きの桜が満開で、通りがかる人は見上げて写真を撮っていた。
この映画にも桜は象徴的に登場する。「だってしょうがないじゃない」は広汎性発達障害と軽度の知的障害を抱えながら独居生活を送る監督の叔父であるまことさんの日常を見つめた三年間のドキュメンタリーである。まことさんは数年前に亡くなった母親と暮らした家にひとりで住んでいる。家は昭和の匂いが染み込んだ佇まいで、広い庭がある。庭がやけにきれいに掃き掃除されているのが気になった。庭木も植わっていて、ひときわ立派なのは桜の木。映画の冒頭では枯葉も落ちきった季節で、落ち葉の時期には隣から苦情が来るので掃き掃除をまめにしているが、今はだいぶ楽になったとまことさんは言った。
まことさんは高校卒業後いくつかの職に就いたけれど、父親の死をきっかけに母と暮らすようになり、以後四十年間は母と二人きりでこの家で過ごしていたらしい。その母もある日救急車で運ばれた。母の死後は叔母が公的な手続きをし、生活を支えながら暮らしている。まことさんのところには撮影のために監督が訪れる以外に、叔母、傾聴ボランティア、掃除、買い物を介助するヘルパーなども訪れる。

まことさんは様々なことにこだわりがあるので、すでに習慣化していることを変えるのが難しい。日常動作を見ていると、あらゆることが念入りに行われる。例えば物を置く動作の途中に、置くことをイメージの中でシュミレーションして何度も確認するような、外から見ていると奇妙な間(ま)に感じられるインターバルが入る。
まことさん自身、住み慣れた自宅での生活が叔母や親戚の協力によって可能になっていることもよくわかっているので、叔母から言われることには反論できないと思っている。映画の撮影期間中に叔母の提案で老朽化した家の畳はフローリングに張りかえられ、ベッドが設置された。住環境が変わったことを「本当はどう思ってるの」と監督が聞いても、まことさんはあまりはっきり答えない。
そして庭の桜も伐られることになった。落ち葉問題のもあるし、枝は育ちすぎ電線に干渉しそうになっている。年をとった親戚としては自分たちもいつまで気にかけていられるかわからないし、近隣に迷惑をかける気掛かりはなくしてしまった方がいい、といった事情だろう。けれど四十年間その家に暮らしてきたまことさんは少なくとも四十回、桜の開花を見てきたはずで、切ってしまえば当然元には戻らない。毎年この家に春を誘っていたものが忽然となくなるのだ。
業者がやってきて、躊躇なく上の方から枝を払いはじめる。まことさんは庭で作業を見守りながら、それくらいでいい、ちょっと枝を残しておいてもいいんじゃないかと言うけれど聞き入れられず、ついに幹にもチェーンソーが入れられた。ところが業者が途中でダメだとチェーンソーを置いた。木の中にコンクリートが入っていて刃が立たなかったのだ。木の内部が朽ちて空洞化したところにウレタンやコンクリートを充填する木の治療法がある。この桜はやはり大切にされてきたのではないか。長年そこに根付いたものは簡単には切れなかった、というのは、この映画の中で静かに雄弁な出来事のひとつだった。
庭には乱雑な切断面の桜が残された。まことさんは自分の家じゃないようだと窓から外を眺めてつぶやいた。しばらく後に木の表面をきのこが覆った。

思うように自分ですべてを決められない。まことさんの生活を守ることは管理という言葉と癒着している。本人の意向を全く無視してがんじがらめにするのは正しくないけれど、燃えるの見たさに玄関先でマッチを何本も擦ってしまうのをダメとわかっていながらやってしまうことを放ってもおけない。まるでどちらの方向からも「だってしょうがないじゃない」という声が聞こえるようだった。

ドキュメンタリーと言っても映画は映画であるから、撮る方は何事かを撮ろうとし、そうすると対象に能動的に働きかけはじめる。映画の後半で監督はまことさんとプロ野球観戦、カラオケ、夏祭りなどに出掛ける。それらはまことさんがひとりではなかなか出来ないことで、もちろんそれらを楽しんでいる様子だった。ただ純粋にこの人物を追いたいという初動の先には創意も介在し、この映画からはまことさんの日常だけでなく、徐々に撮る側の欲望も見えてくる。
視線はまことさんに踏み込んでくると同時に、演出のようにもふるまいはじめ、撮られる方もカメラを向けられる異常事態に慣れていく。あらゆる状況を受け入れながら生きているまことさんは、無防備にある意味完全な被写体になれてしまう。その関係性には際どいものも含まれているように感じられた。
監督は撮影が終わってもまことさんに会いに行くと書いている。この映画を暴力的だとは思わない。けれど撮る/撮られるの関係において発生してしまうパワーバランスについては、映画を見ながら考えるところがあった。

mimacul studies

mimacul studies vol.1
俳優 劇作家 演出家に向けたLGBTQ勉強会

[日時]2020年4月18日(土)13:30〜16:30
[会場]ウイングス京都 2F セミナー室B
[参加費]1000円
[ご予約]こちらのフォームからご予約ください
[お問合せ]nmicacimn@gmail.com

[ゲストスピーカー]和田華子(俳優)
俳優。1988年生まれ、青森県出身。FtM トランスジェンダー。京都造形芸術大学舞台芸術学科にて演技の基礎を学ぶ。 卒業後、フリーランスで多くの舞台作品に参加。これまでに松本雄吉、松田正隆、神里雄大、西尾香織、山田百次、舘そらみ、オノマリコ、平田オリザらの作品に出演。2019年より、青年団俳優部所属。 Twitterアカウント@tsubaki_tsubomi

[内容紹介]
俳優の和田華子さんをゲストスピーカーにお迎えし「俳優 劇作家 演出家に向けたLGBTQ勉強会」を開催します。この勉強会は昨年から和田さんが個人ではじめられ、関西でもぜひやってほしいとこの度企画しました。

内容としてはLGBTQに関する基礎知識、演劇、映画、ドラマの表現方法について、また稽古場でのことなど、和田さんが普段関わるクリエイションの現場のことを主軸にお話しいただきます。特に他者と共に身体を素材として創作を行う表現に関わる人々が、まず知ろうとすることはとても大切なのではないかと舞台芸術に関わる私自身自覚するところです。俳優、劇作家、演出家だけでなく、ダンサーやその他の表現の現場に関わる方もご参加いただけます。

LGBTQのことに限らず、相手を傷つけるつもりなく行った言動に相手が傷つくということはどんな場面でも起こり得ます。そのボーダーラインは明確な線ではなく、常に対面する相手によって相互にそれを慮る必要があります。知性とはそれができることではないかと最近特に感じます。ぜひご参加ください。

mimacul 増田美佳

Dear my sisters

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妹に同性のパートナーがいると知ったのは昨年末のことだった。家族で集まった帰り道、妹の車で送ってもらっている途中に、実はお付き合いしてる人がいて、その人女の子やねん、と運転中の妹は前を向いたままそう言った。私は助手席で前を向いたまま聞いた。

その言葉は私の耳の内で瞬時にカミングアウトと訳された。実際そう呼ばれる告白なのだが、同性であるというだけで、姉に付き合っている人がいるという報告が「カミングアウト」なんて言葉になってしまうのは、冷静に考えると変である。けれど現時点で、まだ私の認識はそうなっているのだと実感した。偏見はなくても、なんでもないことではなかった。

しかし同性であれ異性であれ、妹に大切な人ができたこと、何より話してくれたことがうれしかった。やっと出会えたのだなという感じがした。それでやや感極まっているのを悟られないよう、努めて前を向いたままでいた。よかったうれしいよかった私は応援する、というようなことを繰り返した。付き合ってもう一年経つという。妹がすぐには話せなかったことは確かで、他の家族にはまだ伝えていなかった。

それまで妹はあまり恋愛について話さなかった。うちは三姉妹で、その妹は末の妹である。もうひとり真ん中の妹がいるが、私や真ん中が、彼氏できたかい、好きな人いないのかい、とちょっかいを出しても、いーひん、ない、と素っ気なく返されるのが常だった。恋愛にあまり興味がないのかも知れないとある時期から冷やかすのはやめにした。なんの悪気もなかったけれど、その時は彼氏以外の可能性があることを想像していなかった。妹の中にはいろんな思いが渦巻いていたかも知れない。

家まで送ってもらい妹と別れたあと、おかえりと鳴いた猫に顔をうずめて私は泣いた。大半は喜びで、あとは何も気付けずこれまで相談にも乗れなかったこと、妹が言葉にするまでの逡巡などを想像すると、いろんな思いが混ざって目から放流された。猫は迷惑そうにしつつ持ち前の柔らかさで吸収した。

年末年始の休みに妹はスペイン旅行に行く予定で、その旅行は彼女と一緒に彼女の実家へ行くのだとその時に聞いた。彼女はスペイン出身である。ふたりは日頃、日本語と英語を駆使してコミュニケーションをとっている。
彼女の方は自身のセクシュアリティについてもう家族に話している。ご実家はカトリックで同性愛は罪とされるので、カミングアウト当初は受け入れられずトラブルが起ったという。けれどその後、時間をかけて家族も彼女のことを理解してくれた。だからこの度日本から恋人を連れて帰り、ホームステイすることも大丈夫なのだという。他方ではもう両親に紹介するところまで話しが進んでいるのに、こちらではようやく姉がひとり知りましたという段階である。彼女に申し訳なく思った。
最初驚くかも知れないが、うちの家族に話してもまず否定はしない。皆受け入れるに違いないから折をみて話してほしい、そして来年はきっと彼女を紹介してくれと妹に伝えた。

LGBTについては関心のあるトピックであったし、友人もいる。けれどもっと知りたくなった。同性カップルが日本で暮らしていくことについて具体的に知りたくなった。
知ってのとおり日本では同性婚は認められていないが、パートナーシップ制度は市町村によって導入されている。しかしこの制度では婚姻関係は認められず、財産分与や税制優遇なども受けられないし、パートナーの扶養に入ることもできない。
パートナーが危篤のときに病院で面会を断られたり、どちらかが外国籍だった場合に配偶者ビザはおりない。戸籍上は他人である。子供を育てようとするとこれもまた複雑で、同性の二人が両親ということにはならない。
だから制度を申請しても、異性間の結婚のように籍を入れることにはならず、正直名目だけのようなところもある。けれどまだ口にすることさえ躊躇する風潮であるから、社会的に認める態度を広めていくためにも、まずは導入すべきである。もちろん同性カップルにもいろんな恋愛の形態があり、結婚を必要としない人もあるだろう。しかし必要とする人がいる限り選択できるようにすべきである。つけ加えて言うと夫婦別姓もさっさと認められるべきだ。こうありたいと願う人たちの意向を退けてまで守らなければならないこの国の家族の形態と秩序とは何なのか。

私は京都に住んでいるのだが、まだパートナーシップ制度は導入されていない。近いところでは今年に入って大阪府全域で導入された。京都はまだ検討中の欄にすら入っていない。
妹の話しを聞きながら、ふたりは一緒に暮らしていきたいのだろうと察せられた。私はとにかく彼女らが、自分たちのことを隠さなければならない状況だけは変えたいと思った。ふつふつしながらその日のうちに京都市にパートナーシップ制度の導入を提言するパブリックコメントを一気に書いて提出した。

年の瀬、スペインにいる妹と彼女へ、来年は会おうと猫と写真を撮ってLINEを送った。彼女が大きなクリスマスツリーの前でHiと話す動画が返信されてきた。エディット・ピアフのような笑顔だった。

年が明けて妹は旅行から帰ってきた。向こうではご家族の温かい歓迎を受け、おばあさんまで手料理を用意して待っていてくれたそう。親族の集まるパーティーにも参加し、スペイン語は全然わからないけれど楽しく過ごしたという。ちなみにスペインでは2005年から同性婚が合法化されている。旅の写真を見せてもらうとふたりで並んだ写真がたくさんあった。おそらく外を出歩くのも日本よりずっと気楽であったことだろう。

帰国後すぐに妹は母と真ん中の妹にも話した。母はほとんど驚かなかったという。薄々勘付いていたのかも知れない。そして父にも伝わった。いちばんどう反応するのかわからなかった。けれど父も会社でLGBTについて研修を受けていたことなどもあり、妹のことをわかってくれた。

それからいろんなタイミングが重なり、案外早い段階で彼女とうちの家族が顔をあわせる日が訪れた。実家に集まって夕飯を食べる流れになり、母と私は白菜と豚肉の中華風鍋の準備をした。真ん中の妹とその息子5才と2才も来ていた。
ふたりがやって来た。彼女は思ったよりも小柄で、ますますピアフのようだと思った。5ヶ国語を話せるそうだが、日本語も日常会話はほとんど問題なくできる。
鍋をつつきながらスペイン旅行のこと、文化や食べもののことなどを話す。甥っ子に巻き込まれて、皆でニンテンドースイッチのマリオパーティーをやる羽目になった。でもそれでかなり打ち解けた。子供と任天堂はすごい。
妹と彼女の仲の良い雰囲気も伝わってきて、もはや同性パートナーだということは何ら気にならず、家族に馴染んでいた。むしろなぜパートナーが異性でなければならないのかと思うほど、一緒にいて居心地がよかった。本当に普通のことだと思った。そして尚更これを普通と見なさない世の中に対してますます憤りが募った。

彼女と話してみると、片言の日本語の会話でも聡明な人であることがわかる。今は留学ビザで日本にいるが、このまま日本で暮らしていきたいという。ふたりは今年、家を探して一緒に暮らそうと計画をしている。甥っ子たちもすっかり彼女のことを好きになった。そんな甥っ子たちの姿が何より希望に見えた。彼らには普通のことになる。勉強して理解しなくてもいいことになる。

LGBTや同性パートナーへの理解は若い世代には浸透してきているし、パートナーシップ制度も次第に導入され、同性婚もいずれ認められるようになるかもしれない。しかし近い将来というのでは遅い。今でもすでに遅いのだ。待っているのでは遠い。これまでも、今もなお、ただ当たり前に暮らすために戦っている人たちがいる。

私は早くなんとかしたい。彼女たち、そして同じ状況にある人たちが思うように人生を歩めるように。もちろん制度だけの問題でない。同性婚を認めて欲しいと思うのは、彼女が外国籍であることも理由の一つである。この国を選んでくれるなら安心して留まり、暮らせるようにしたい。そのためにまずはこれを書いた。

この記事の掲載を快諾してくれた妹と彼女にこの場を借りて感謝を伝えたい。

瀧口修造/加納光於「海燕のセミオティック」

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2019年の暮、年内の仕事に大体片がつき、年末の家事の波に飲まれる前に一年をねぎらう小旅行ということで富山県へ向かった。いちばんの目的は会期最終日になったが、富山県美術館の瀧口修造/加納光於「海燕のセミオティック」展を観ること。もちろん冬の北陸、寒鰤をはじめとする美味しい魚たちも楽しみのパーセンテージを大きく占めていた。京都から金沢までサンダーバード、そこから乗り継いで約3時間。曇りがちな日本海側だが、運良く晴天で日差しも柔らかだった。

富山駅から美術館までは歩いていける。道幅は広くゆったりしていて、途中に富岩運河環水公園があり、展望台付きの天門橋の流線型が目にとまる。岸辺に馴染むようなかたちでスターバックスがあって、冬休みの親子連れなどで賑わっている。富山県美術館は運河を越えてすぐのところにあった。2017年にオープンしたまだ新しい建物で、2階のホワイエから立山連峰が一望できる設計になっている。普段盆地に住んでいて山に囲まれてはいるが、同じ山でも見慣れた山とは別のもので、パノラマの風景にはちょっと圧倒されるものがあった。山はこんなに鋭く切り立った大地の隆起なのだ。美術館という場所は屋内で展示物を見るための施設だが、展示と関わりなく視覚を解放する遠景があるのはとてもいい。

「海燕のセミオティック」展は、詩人と画家の出会い 交流 創造、と副題が付いている。 加納光於の作品が年代を追って展示され、瀧口修造のデカルコマニーや出版物、往復書簡なども見られる。セミオティックとは記号、記号論という意味。
瀧口修造は富山出身である。書斎にあった様々な作家から贈られたオブジェ、絵画、鉱物、貝殻などが亡き後に夫人より寄贈され、コレクションとして恒久展示されている。書斎の雰囲気や交流の幅広さが伺える。どちらかといえばモノは溜め込むより断捨離が推奨される世の中だが、よくわからないモノがごちゃごちゃあるのも悪くないと思える。瀧口修造は詩人であり、美術評論家として活動していたが、1960年頃から評論の執筆から距離をおき、造形作品の制作に没頭する。その頃に作られたデカルコマニーの連作「私の心臓は時を刻む」が展示されていた。約100枚で構成されている。作品ひとつひとつは小さいけれど、詩人は遭遇するために、今ここで、その手によって、世界から見知らぬものを引き寄せる。言葉の外で詩を見出す作業のように感じられた。絵画表現としてこれを成立させようという握力で向かうと取り逃がしそうである。静かに開示される秘密を紐解くように紙と絵具に触れる手つきは、描く能動の手前にあり、むしろ受け取られたものたちのようだった。

私は加納光於の「稲妻捕り」という画集のアブストラクトな作品群が特別に好きで、今回の展示では稲妻捕りの実物も見られるということで富山まで来た。タイトルの通り一瞬のうちに捕獲されたかのような動的なイメージになぜか心から惹かれる。
加納光於は古書店で手に入れた銅版画の本を読み、19歳の時に独学で版画を始めたそうで、初期の作品は病弱だった本人が病床で見た幻影や植物、胞子のような有機的で細密なイメージを具象としてあらわしたモノクロームの作風だった。1954年の春に人の勧めで瀧口修造を訪ね、作品を見てもらうことになる。加納光於21歳、瀧口修造51歳。親子ほど歳は離れていたが、加納光於の才能をすぐに認め、その後も長く交流は続くことになる。
加納光於の作風は1957年を境にアブストラクトへ移行し始める。防蝕ニスが剥がれた版の裏面を試しに刷り、偶然生まれたイメージに手を加えた「星とキルロイが濡れる」あたりから、自身が内包するイメージの具現化よりも、手法から未知のイメージを導き出すことに焦点が移った痕跡が作品からはっきり見て取れる。作家に親密な内的世界から、それを手放し偶然に起こることに身を任せる喜びを知った新しい鼓動が作品からそのままに伝わってくる。以降加納光於の作品は、手法の中に分け入っていく精神によって現在も変化し続けている。油絵に移行して作品のサイズが大きくなり、画面構成を模索し始めた絵画作品は、やや構成主義に偏っていた。意識的な操作の印象の方が残るものが多く、このままだったらどうしようと展示の終盤やや心配になっていた。
けれど展示室の最後に最新作であり、展覧会のタイトルにもなっている連作「海燕のセミオティック」はその心配を完全に払拭した。透明感のある色面が並んでいるのだが、ほとんど自然現象のように見える。もちろん絵画であり構成されているのだけれど、人の手の介在や作為をほぼ感じさせない。蜜蝋を混ぜた自作の油絵具を水平に置いたカンヴァスに流し、薄いフィルムを近付けて静電気で絵具を動かして描かれているらしい。だから画面に起こった現象がそのまま取り置かれているように見えるし、実際それに近い状態を抽出する技法である。この連作は光に見えた。加納光於の初期作品はまるで自分に中に梯子をかけて降りていき、わずかな光で照らして見えたものを紡ぎ出す細密な夜のイメージであったけれど、絶えざる実験の果てにその光の方を探り当てたかのような、邂逅の感があった。
ところで光於という名前、於はああという感嘆をあらわす。もとは烏の象形であったらしい。「光に於いて、ああ…」しばらく作品の前から離れ難かった。

展示室を出てホワイエから立山連峰を眺めた。やはりすばらしいけれど、写真に撮ってもおもしろくないのでそのままにした。
例えば美しいからこれを撮るとか描くとかいう動機からは遠いところで、全く別の創意によって獲得されたものが、こういう風景を見たときと同じではないにしろ、肩を並べる霊性を帯びているとき、その作品は私にとって深く残るものになるのだろう。

富山で食べた魚が美味しかったことは言うまでもない。

堀川御池ギャラリー「いんぷっと/あうとぷっと」

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京都市内の障害者福祉施設、総合支援学校等のアート制作の巡回相談、支援事業等で見出されたアーティストの作品展「いんぷっと/あうとぷっと」が堀川御池ギャラリーにて開催された。
アウトサイダーアートの展覧会はこれまでにも何度か見たことはあった。単に既存の技法を習得し、習熟するのとは違う仕方とこだわりによって制作された痕跡を目の当たりにするのだけれど、その度ビビッドな各々の作風、不意を突かれるような着目点、集中力に驚かされる。そこには健常者基準の「よくできました」を絶句させる力がある。「よく」「できる」とは何か。この絶句の先にもう少し分入ってみる必要があるのではないか。

今回の展示の特徴は、それぞれの作品制作のきっかけとなったもの、例えばyoutubeの動画、雑誌の図版などが「インプット」としてキャプションに明示されていること、そして作品のほとんどは販売可能となっていたことが挙げられる。展示室は1階と2階、3室に渡り、作品点数も多く、平面、立体とバラエティーに富んでいた。印象的だったいくつかの作品について触れてみる。
井上美喜子の絵は、ナショナルジオグラフィックの人物写真をもとに描かれていて、写真と絵が並べて展示されている。作家は写真を選び、紙とクレパスを手にそれを写す。そのとき行われる変換作業を想像する。肌やシャツの色が塗り込まれていくが、人物だけが描かれ、背景は描かれない。作家はただやみくもに写真を写しているのでなく、モチーフとして作画に必要な部分を抽出している。つまり描くと同時に何かを「描かない」ことも選択されている。それは明確な創意である。描かれた『イエメンの人』や『ケニアの女の人』は写真とは異なる白い抽象空間の中に引き出された人物画として完成している。写真をもとに絵を描くときに、写真とは異なる描画としての魅力に達することは、簡単なことではないのだけれど、それが成し遂げられている。
大柳憲一の作品は、フォントサイズで言えば15ptくらいのおびただしい数字の羅列でケッチブックが埋め尽くされている。色とりどりのカラーペンなどで隙間なく用紙全体が数字なのだが、閉じたまま積まれたスケッチブックもどうやら同じように描き込まれている。ギャラリーに持ち込まれた分だけでなく、作品はまだまだあるらしい。今回の展示にあたり、作品タイトルをどうするか作家と相談したところ、彼の書き続けていた数字が『車体ナンバー』であることが初めてわかったという。
木村康一の『妖怪』シリーズは水木しげるの妖怪をインプットとした、妖怪の鉛筆デッサンと粘土で立体化された妖怪のバリエーションが並ぶ。水木しげるがインプットと言っても、ゲゲゲの鬼太郎のようなキャラクター的なものでなく、妖怪はどれもかなり複雑な形態をしていて、土着的な印象があり、某国の原住民が呪術の際に使用したと言われれば信じただろう。先月までやっていた国立民族学博物館の特別展『驚異と怪異—想像界の生きものたち』に出展されていたらよかった。人類が共通に不気味や畏怖を感じる形態の普遍性に達しているように思われた。

セロテープを長く切ってくるくる丸めて立てたものをたくさん並べた石原寛子の立体作品。一畳程のベニヤ板の上に半透明の筒が群生する平原のようで、セロテープには所々淡い色がついている。セロテープは一度本人の腕に伸ばして貼られ、丸められるらしい。着色は、指にクレパスをつけてセロテープに色付けしている。貼る/剥がすという皮膚感覚を伴った独自の技法でもって制作されている。一度体に貼って剥がすということは、テープに皮脂が付着するので、皮膚の転写でもある。そうして見れば、もれなく作家の体に貼り付き剥離する過程を経ている素材の群生は、独自の生殖方法によって生み落とされた産物のようであり、ひそやかなエロティシズムを感じさせる。
ただ、このように作品を見る目を介在させなければ、セロテープの群生はゴミとして捨てられてしまう。ひたすらセロテープを引き出し丸める行為は「問題行動」であり、もったいないから止めましょう、となる。もちろん支援学校などの現場では、日々の学校生活を運営するだけでも手一杯で、創作物を残すべきか否かと、逐一吟味して判断できる人材も余裕も十分にはない状況は想像できるし、それを非難することもできない。

けれど、表現されたものがすぐれた作品であれば、現代アートと対等な場で語られるようにしていかなければならない。障害のあるなしに関わらず、素晴らしい作品が相応に評価されないことは、美術に関わる者として許せないと、美術家でありこの展覧会の企画に携わるNPO法人障碍者芸術推進研究機構プログラムディレクターの伊東宣明は語る。
たしかにアウトサイダーアートとして、そのカテゴリーの内でしか眺められないのは惜しい作品が多くあった。画材、素材、モチーフといった創作のきっかけと、作家の身体性が合致し反映された作品には、生体のリズムと躍動が宿る。教えられて身に付いたものより「そうなってしまう体」が圧倒的に優勢で、痕跡には生(き)のままが息づいている。それは見ている方にも影響するので、私はよい作品を見ると自分の体も動きたがるのを感じる。修練された技法やコンセプトでもって作品を構築する画家、美術家の仕事がある一方で、それとは異なる道筋の作品も世界には必要であり、また得難いものである。
障害者であれ健常者であれ、作品とは個によって表出された世界の様相である。具象であれ抽象であれ、個々が世界から受け取るものが鮮明にアウトプットされることが重要である。だから外部から為すべきことは方法の指導よりも、素材、画材、創作の場の提供、こういった展示の機会を作ること、そして絶句の先に作品に対する言葉を育むことではないだろうか。

THEATRE E9 KYOTO 『京都市による京都駅東南部エリア「都市計画見直し素案」を考える緊急シンポジウム』

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10月7日にTHEATRE E9 KYOTOで行われた『京都市による京都駅東南部エリア「都市計画見直し素案」を考える緊急シンポジウム』に参加した。
京都駅東南部エリアの都市計画について、規制緩和の見直し素案を京都市が急に提案し、地元住民とのコンセンサスを十分に得られないまま、計画を進める姿勢を見せたことから「緊急」に行われた。THEATRE E9 KYOTOは今年6月、東九条にオープンした民間の小劇場で、多くの在日コリアンが暮らす東九条は京都駅東南部エリアに含まれる地域である。4年後に京都市立芸大が移転する崇仁地区と共に芸術文化によるまちの活性化、多文化共生などをかかげ、住民と共に新たに若者やアーティストが移住できる地域に育てていこうとしている。

都市計画見直し素案では、住居地域であったエリアを近隣商業地域に、準工業地域エリアを商業地域に用途変更するもので、変更されると建てられる施設の種類が一挙に増え、建ぺい率、容積率も引き上げられる。そうなると店舗やホテルが建って人が訪れ、地域は賑わうかも知れない。けれど同時に周辺の地価高騰が予想され、若者やアーティストといった経済的余裕があるとは言いがたい人々が住むことへのハードルが上がること、地域に暮らしてきた高齢者の生活環境が一変する可能性がある。素案の方向性で進めようと言うのはあまりに性急ではないかとシンポジウムでは、芸大関係者、弁護士、東九条を拠点とするアーティストなどが集まり、まちと理想的な創作環境の共存とはどういうものであるか、異なる立ち位置から意見が交わされた。

様々な意見を受けて思ったことは、とにかく東南部エリアの開発は、利潤だけを求めて参入してくるものに荒らされることから土地を守り、すでに暮らす人々とこれから住まう人々、関わる人々が時間をかけて生態系を作っていける余白を保ちつつ進めることが何より大事、ということである。傍目から見て地域のイメージが改善することや、アートを表面的に捉えることなく、今ある風景を急激に変えてしまわないよう、きめ細かく進めなければならない。

都市計画について考えるとき、現在の同和地区の風景について改めて思うことがある。
私は生まれてから36年間、ずっと京都に住んでいる。京都に点々とある同和地区は市営住宅、銭湯、保育所、隣保館があって、どこも似たような風景になっている。特に崇仁地区はもともと住んでいた人に加え、戦後さまざまな事情で流入した人も住み着き、広大な土地にバラックがひしめく京都最大の同和地区だった。市営住宅の建設に際しても、土地の買収は難航し、周辺地域の住民による反対運動などもあって、一筋縄では行かなかったそうだ。

私の出身地も同和地区を含む学区だった。市営住宅に住む友達もたくさんいて、よく遊びに行ったし一帯の風景には懐かしさを感じる。かよった小学校は1867年、被差別部落の子どもたちに教育をと私財を投じて開設された私塾を起源とする小学校で、地域住民の願いを受けて同和問題と人権については6年間特に丁寧に教わった。
私の実家は市営住宅から通りを隔てた区画の一軒家だった。同和学習を進める上で、市営住宅が整備された経緯とそこに住む人々について触れずにはいられない。先生はその辺りの説明を本当に慎重に進められたと思う。今はいろんな人が住めるようになっているけれど、当時は市営住宅に住んでいるか否かで何となく出自が認識されていた。だからと言って友達には何の差もなかった。逆に言えば市営住宅以外に住んでいると、親などに教わらない限り出自を認識する方法がなかった。だから私は自分の家は同和地区の外と思っていた。
ある時、祖父から曽祖父の代まで住んだという屋敷のモノクロ写真を見せられた。その場所は現在市営住宅の建っているところで、都市計画の際に立ち退いたと聞いた。子どもの頃はぼんやりそうなんやと思っていた。同和地区の中でも地域や世帯によって生活水準はいろいろだったようで、曽祖父の家は家業を営み、生活には余裕があったらしく、屋敷も割合立派なものだった。父から聞いた話しでは、祖父が市営住宅に住まなかった理由は、特別に支援されるのでなく、同じようにやって行かなければだめだと思ったからだという。

祖父母はもう亡くなっているけれど、自分たちの来歴について何も語らなかった。大学に入っていからふと父に聞いてみたら、私には特に話すきっかけもなかったから聞くまで話さなかったそうだ。父に結婚や就職で出身地に関わる差別を受けたことがあるか尋ねると、ないと答えた。そんな訳で私が自分の家の事情をはっきり知ったのは、二十歳を過ぎてからだった。

祖父母より少し上の世代では、同和地区で暮らした人には、貧困で学校に通えず読み書きができない人も少しいて、高齢者向けの識字教室なども開かれていた。結婚は外の人とは難しかったようで、祖母も別の地区の被差別部落から嫁いできていた。父母の世代からは徐々にその境は越えられたけれど、結婚や就職に際して住所を調べられることはあったようだ。そして現在も全くなくなった訳ではない。特に結婚に際して親に反対されるケースがネット上で相談されているのを見る。以前「部落地名総鑑」をネット上で見つけたと時は愕然とした。被差別部落だった地域の住所が一覧になっていて、企業が購入し、採用時の判断材料にしていたものだ。これを売る者と買う者がいたことが信じ難い。普通に閲覧できた時期があった。そこには私の本籍地の住所も載っていた。

同和問題は様々な差別の中でも薄れつつあるものだと思う。でも忘れ去っていいことではない。小学校の人権学習の発表のことを思い出す。自分の出身について自認のある同級生が、全校生徒の前で作文を読んだ。同和地区の出身であることを表明し、でもそのことを恥じたことはない、こういう差別があったこと、まだ完全になくなっていないことは許せないし、人々が本当に平等に生きる世の中にしていきたい、といった真っ直ぐな内容だった。同級生の中には当事者として問題に向かう子と、そうでない子が必然的に存在した。私は当事者ではない者として友達の言葉を受け止めていた。
時を経て、どう主体的にこの問題を引き受けられるだろうと考えることになった。別に言わなくてもいいかも知れない。でもこの微妙な位置付けの自認をどうすればいいのか、当時の同級生の引き受け方を思い出すと、私は今書けることを書いておこうと思った。

被差別部落に暮らした人々は、ただひたすら貧しい暮らしをしていた訳ではない。古くは千秋万歳などの芸能にたずさわる者、革や石や竹などを扱う特殊な技術を持って仕事をしていた職人がいた。『蘭学事始』に日本で初めて人体解剖を行ったことを杉田玄白は書いているが、執刀したのは被差別部落に住む老人で、名前すら記録にない。社会生活を機能させる上で、誰かがやらなければならない底の仕事、血や死に触れる「ケガレ」引き受けていたことや、独自の生活様式が根付いていたこともまた事実である。

市営住宅が整備され、それによって住環境の安全と衛生面が改善されたことは間違いない。けれど整って見えるようにしてしまった、という側面もきっとある。それまでの隣近所のつながりや生活感、風景は一変し、失われたのだろうと想像する。同和地区の全員が市営住宅の建設を歓迎した訳ではないだろう。現在崇仁地区に点々と残るフェンスに囲われた空き地には、さまざまに入り組んだ事情の跡を感じる。
これから崇仁地区や東九条が変わっていくのなら、それまであったものを断ち切るような仕方ではいけない。上書きして消してしまって無かったことにしないように。好立地に乗じて金儲けを目論むものに食い荒らされないように。そしてアートに過剰な期待をせず、発生するものを待ち時間をかけて育てて行かなければならないだろう。

映像オペラ マシュー・バーニー「RIVER OF FUNDAMENT」

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大阪の中央公会堂でマシュー・バーニーの映像オペラ『RIVER OF FUNDAMENT』の上映があった。マシュー・バーニー作品は2002年に『クレマスター』シリーズ5作連続上演を見る機会があった。その時も映画館ではなく劇場で上映された。昼の12時から始まって、見終わると夜8時過ぎ。上映の長さだけでなく、大画面で繰り広げられる高濃度のイメージを摂取し続けた果てのグロッキーだった。あらゆる意味で適度も適量もはるかに超えていた。けれど受け取りきれなさを体感した経験は忘れ難く、当時のチラシもまだ持っている。

今回も上演時間は途中休憩を挟んで6時間ある。前日はしっかり寝て、休憩中に食べるパンも買い込んで万全な態勢で臨んだ。
中央公会堂の中に初めて入った。ネオルネッサンス様式の重厚な外観に劣らず、屋内も金色のプロセニアムアーチの舞台が豪華で、スクリーンは舞台上に設置されている。マシュー・バーニー作品に似合うだろうと始まる前から心躍った。公会堂は大阪の商人、岩本栄之助の大阪市への惜しみない寄付によって建設された。渡米した際にアメリカ大都市の公共施設の立派さを知り、富豪が慈善事業に寄付をする習慣に感化されたという。しかし栄之助はあるとき株で莫大な損失を出してしまう。寄付した財産を少しでも返してもらうよう周囲から勧められたが、大阪商人の恥だと聞かず39歳でピストル自殺。公会堂はその2年後の1918年に完成した。現在は重要文化財となっている。

上映は舞台上の赤い天鵞絨の幕があがるところから始まる。
『RIVER OF FUNDAMENT』は三部構成で、1幕ロサンゼルス、2幕デトロイト、3幕ニューヨークとアメリカの3都市を主な舞台として物語は展開する。原作はノーマン・メイラーの小説『Ancient Evenimgs』。読んでみたいけれど、日本語訳が出ていない。11年がかりで書き上げられた古代エジプト神話に基づく死者が3度の転生を試みる物語らしい。『RIVER OF FUNDAMENT』はマシュー・バーニーと音楽家ジョナサン・ペプラーの共同名義で、映像オペラというだけあって音楽や歌がふんだんに入ってくる。私は音楽に詳しくないけれど、シーンごとに現れる歌い手は、いくつかのアメリカ先住民の伝統的な歌唱法で歌っているのではないかと思う。西洋楽器と共に楽器ではない物音も演奏に重なり、音楽はどのシーンも価値観の異なる音を引き合わせてポリフォニックに構成される。その混成の加減が魅力的だった。

ノーマン・メイラーといえば、以前ウースターグループによる演劇『タウンホール事件』で少し書いた。『タウンホール事件』では、メイラーの著書『性の囚人』に対し反感を持ったフェミニストたちと白熱する討論を展開するドキュメンタリー映像が劇中に流れる。メイラーは、暴力は男性生得の心理特性であるため、当然力を行使してよく、男が優位に立つことと快楽はわかち難いと主張する。1970年代、ウーマンリブの勢いの中で女性たちの批判対象だった。たしかに『タウンホール事件』で見た映像の印象は、フェミニストたちの意見を高圧的態度で論破しようとするいけすかないおっさんだった。メイラーは過去に『クレマスター2』に出演もしている。マシュー・バーニー作品から感じるものはステレオタイプなマチズモではないけれど、stemという語に宿る有機性と共に、境界を能動的に侵犯する暴力性を感じる部分はある。

『RIVER OF FUNDAMENT』はメイラーの通夜のシーンから物語が始まる。この撮影のために精巧に再現されたメイラー自宅に文化人、文学界の友人が集まり、故人にまつわる思い出を語り合っている。家の地下には水路があり、それは死者が必ず渡るという糞尿の川につながっている。その川を超えなければ新たな生命を得られない。メイラーの魂も新たな生を得るために川を渡っている。途中で精霊に導かれ、通夜の席に上がってくる。弔問客にその姿は見えない。物語はメイラーの転生と同時に古代エジプト神話のオシリスとセトの兄弟の争いが重なって進行する。
オシリスが自分の妻に手を出したことに怒った弟のセトは、オシリスを騙し棺桶に入れてナイル川に流してしまう。映像ではオシリスは、棺桶の代わりに金色の車に密閉されてデトロイト川に流される。オシリスの妻であるイシスは流されたオシリスを探し、柱となった棺を発見してエジプトに持ち帰る。しかしセトに見つかり柱は14分割され、ばら撒かれる。イシスは再び捜索の旅に出て、バラバラになったオシリスの遺体を集めてつなぎ合わせ、復活させる。しかし生殖器だけが見つからず、他人のものを代用したため復活は不完全で、オシリスは冥界の王となった。このくだりは、デトロイト川から引き上げられた車が14分割されて溶鉱炉で溶かされ、巨大な鉄の生命樹、ジェド柱として蘇る、となっていた。溶鉱炉のシーンでは、実際に解体され、鉄くずになった車を火花散る溶鉱炉に投げ込んで溶かしている。

マシュー・バーニーの作品には荘厳なもの、ラグジュアリーなもの、人によっては生理的に嫌悪感を催すであろうものも並列に、躊躇なく映し出される。世の規制など大したことではないと言うように。死骸、汚物、臓物、性器、日常では隠されているそれらが規制と管理の外に放り出される。神話の世界では倫理観の外で物事が動くけれど、原初の世界のカオスやグロテスクと、現代の風景や社会が接近して危うい境界が露出する。生につきまとう腐臭や死臭が脱臭されないまま、むしろ濃厚に漂ってくる。
一幕ごとに20分の休憩が入るのですぐ外に出て、目の前の土佐堀川に視聴覚を放ってリフレッシュをはかるが、淀んだ水が劇中の糞尿の川と繋がって見えてくる。パンをかじりつつ、通夜のシーンで供される晩餐にあしらわれた蛆虫のことを思い出す。

作品のテーマとなっている川、水銀、体液、車の流れるフリーウェイ、溶鉱炉から流れ出る鉄、流転。大掛かりで壮大なシーンも屋内の通夜のシーンも、画面に映る現象のひとつひとつが高密度で、ぼんやり眺めている隙がない。物語の内容はメイラーの物語と神話が混雑しながら進む上、古代エジプト神話のあらすじを知らないと何をやっているのか、なぜセトがホルスの精液のかかったレタスを貪り食っているのか、などまったくわからないこともある。
けれど物語が追えないことはほとんど問題にならない。行為の理由がわからなくても、細部に宿るディテールを目の当たりにする時間で感覚的に満ちてしまうのだった。満ちるどころか溢れるように、視覚以外の感覚器官にイメージが浸透し身体的にざわつく。鑑賞は体験に引きずり出される。これほど強靭な物語と現象と表象の交差、その連続を私はやはり他に知らない。

台北滞在記

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4日ほど台北にいた。
行きの飛行機で『人魚の眠る家』という映画を見た。事故で脳死状態になった5歳の娘を在宅看護する家族の物語。意思で動くことのない娘の筋肉に電気信号を流し、手足を動かして筋肉量を維持し、健康状態を保っていた。母親は徐々に娘の体をうまく操作できるようになり、足を持ち上げる下ろす程度だった動作が、やがてプレゼントを両手で受け取り、口角を上げて微笑む、くらいまで操れるようになってしまった。けれど家族や友人は、脳死したはずの娘の体が動かされることをどこか気味悪く感じていた。それは「もう死んでいるはずの体を動かす」ことへの不気味さである。けれど娘の心臓は動いている。
いつしか母親と周囲の人々との思いの溝は深まり、不和が生じていた。母親はついに次男の誕生日の席で、娘に包丁を突きつけて警察を呼んだ。皆がもう死んでいると思っているこの子を殺したら、殺人になるかと問う。罪になるなら喜んで刑に服する、なぜならこの子を殺して殺人になるならば、皆は娘が生きていると認めたことになるからだと叫んだ。

映画一本見終わってちょうど台北に着いた。旅はいつも自分よりしっかりした誰かしらの道案内に任せて好き勝手きょろきょろしているけれど、今回台北もひとりで海外の空港に降り立ったのも初めてで、電車の乗り場など、必要なものばかり探さなければならない。台北は地下鉄が発達していて、チャージ式のカードを買って移動するのが便利と予習済みだった。500元でカードを買う。プラットホームは「月台」と表示されていて、詩的だ。
着いたのが遅かったので、この日はホテルの周辺を少し散策する程度だった。ファミリーマートとセブンイレブンがやたらあるけれど商品は違って、特にファミマは八角の匂いがする。まず台北を印象付けるのはそこかしこに漂うこの匂い。ホテルのタオルもじっくり嗅ぐと繊維の奥に八角の残香がある。
翌日、台湾式朝ごはんを食べに出かけた。豆漿という豆乳スープに揚げパンを添えたものが代表的な朝食らしい。あとはねぎ入りの台湾風パイ、小籠包。豆漿はしばらくするとおぼろ豆腐状に固まってきて、スープだと思ってなめていたら案外お腹に溜まる。注文したものを全部食べたら苦しくなった。腹ごなしに歩きつつ、近くの台北市美術館に行くことにした。
日韓中の女性の抽象画を集めた展覧会がやっていた。日本からは草間彌生、田中敦子など。石川順惠の絵を初めて見た。線描が重なって構成されるレイヤーの画面は、平面を一つの空間として安定させない。見ていると感覚的に動かされる。張相宜の韓国の伝統的な五色を使った抽象、薛保瑕のポロックやいくつかの過去の画家の技法を複合して描かれた大作など、見応えのある作品が多かった。他には池田亮司の個展、台湾の若手アーティストの個展も5つくらいやっていて、3時間くらい過ごせる。ものすごいボリューム感なのにチケットが30元、約100円くらいだったことが何より驚きだった。
朝ごはんに張り切りすぎたせいでいつまで経ってもお腹が空かない。ミルクティーの中のタピオカさえ胃を圧迫する。街を見て歩く。この国の人はバルコニーで植物を育てるのがとても上手で、基本上を見上げて歩いていた。
夕方5時過ぎ頃から夜市という屋台が出始める。名前のわからない丸、三角、平たいもの、煮詰まった茶色いものからおいしそうなにおいがしてくる。ようやく次のものが食べられる隙間のできた胃に、おばちゃんが白玉団子みたいな餅のかたまりを一個一個手でちぎって丸めてピーナッツの粉を入れてまぶしてくれる団子がおいしかった。

夜、台北の水源劇場でチョイ・カファイの『存在の耐えられない暗黒』というダンス作品を見た。モーションキャプチャの装置を付けたダンサーが背後にプロジェクションされる舞踏の創始者、土方巽のアバターを踊らせる。行きの飛行機で見た映画がふとよぎった。意味は異なるがこちらも「もう死んでいるはずの体を動かす」ということをやっている。けれどこの場合、アバターの土方巽があたかも生きているように降臨、というふうには見えないし、もちろんそれが意図ではない。ダンサーはアバター土方を動かす役として舞台上にいるけれど、動くときにアバターとダンサーどちらを見るかと言えば、ダンサーに目がいく。
ダンサーは過去の土方の振付をトレースし、アバター土方はその動きを受けて動く。空っぽの体が意思の外で動かされている状態は舞踏的な身体に親和しそうだけれど、アバター土方が踊る姿に迫ってくるものはほぼない。けれどこの作品は体なき今、個に宿っていた踊りは再現不可能であると結論付けたいのでもない。
ダンサーに土方が憑るということは、振付を介してダンサーのフィジカルな感覚の上では起こっていただろう。このコンセプトを実現することで、どういう身体の創出が目指されているのかが私にとって気になるところだった。作品自体にはきっといろんな批評の余地があって、舞踏や土方への思い入れの強い人、そうでもない人の間でも意見は分かれるだろう。けれど舞踏と呼ばれるものに斬り込む際どいユニークさに、日本の外から見た視線によるすがすがしさも感じた。
作品の根底には、作家自身が多大な影響を受けた土方巽へのリスペクトがあるという。作家が土方の舞踏の何に魅せられ、動きを再現するコンセプトからどのような踊りの展望を見出したのか、そのことをもう少し作品から受け取りたいと思った。
この日の夜に食べた劇場の近くの食堂のトウモロコシと骨つき肉のスープは特別おいしかった。

別のレジデンスプログラムで台北に滞在していた演出家の篠田千明と会った。私が着いたその日にレジデンスのプレゼンは終わっていたが、チョイ・カファイの上演を同じ日に見ていたので劇場で遭遇した。滞在中に出会った人たちとお別れカラオケをするから来ないか、という誘いをもらって次の日の夕方、龍山寺前の公園で会う約束をした。
龍山寺は台北最古の寺院で、「地球の歩き方」にはこのエリアは台北の巣鴨と書かれていた。実際行ってみると駅前の雰囲気は西成に近かった。駅前の公園にはしっかりしたアーケードがあって雨風をしのげるようになっている。
この日は午後から雨だった。龍山寺駅には地下街があって、占いの店とマッサージ店が多い。喫茶店などもある。小雨になるのをこの地下街をうろつきながら待った。時々しか繋がらないWi-Fiで篠田さんとなかなか連絡が取れず、公園と言っても広いのでどこにいるのかわからない。すでに約束の時間から40分経過して、若干帰ろうかと思い始めていた。待っている間にお腹が空いて、近くのパン屋で見たことないパンをあえて選んで買ってみたが、よく知っているメロンパンの味がした。瞬時つながったWi-Fiで反対側にいることがわかり、ようやく会えた。
すでにカラオケは始まっていた。歌う人はワイヤレスマイクを持ち、音源は篠田さんのスマホから、画用紙に数十曲の中国語歌詞が貼ってあり、それをめくりながら歌う。篠田さんは滞在中このカラオケセットを携えてここに通い、公園で暮らす人たちと顔見知になったらしい。おっちゃんとおばちゃんの輪の中で空いていた風呂の椅子をすすめられ私もそこに座る。公園の中にもテリトリーがあるらしい。歌っているのを聞きつけて歌いに来るおっちゃんもいる。
私の向かいに座っているおっちゃんが、しきりにそばに置いてある缶の中に茶色い唾を吐いている。何か病気なのかと思っていたら、噛みタバコのビンロウのアクを吐いているのだった。缶の中にはもう相当な量が溜まっている。篠田さんは自分のタバコとおっちゃんのビンロウを一個交換してもらい、噛みながらおっちゃんの缶に唾を吐くけれど、だいたい缶の外に飛散していた。吐くのもコツがいるらしい。篠田さんはショートパンツの素足で地面に膝をついている。脚には点々と蚊に刺された跡がある。液晶の割れたスマホもその辺に投げ出されている。この人はインディヴィジュアルだけど恐ろしく境界がない。この公園に異物のまま浸透している。アーティスト的媚態でも擬態でも慈善活動でもない。海外からやってきたアーティストがここで何かを創作したというより、そもそもずっとあった場所やそこにいた人たちが、彼女が来たことで浮かび上がって見えているという感じがする。

歌詞カードの中で私にもかろうじて歌える歌はテレサ・テンの「時の流れに身を任せ」と氷川きよしの「箱根八里の半次郎」だった。おっちゃんが中国語で歌うテレサ・テンと日本語で一緒に歌った。おっちゃんたちは仕事で朝早いので、8時前には寝床の準備を始める。
公園を後にしてひとりで地下鉄に乗りながら、さっきまでの出来事を反芻していた。
私は今回、特に仕事ではなく観光客として台北に来ていた。観光客は訪れた街のここを見よ、あれを買え、これを食べよ、というガイドブックやネットのナビゲーションのもと動き、街にお金を落としていく。私も100元あれば食べられる国で観光客しかいない茶館に行き、1000元の中国茶を飲んだりもした。観光客にはそういうことが求められているだろうし、来る方もそうやって異国の旅を味わおうとする。それも悪くない。でも観光には予定調和的鮮度というか、初めての場所や未知のものに思いを馳せつつ、結局のところ事前に得た情報をなぞって満足しているような虚しさがつきまとう。
今回出会った公園のおっちゃんたちは観光客である私と最も遠かった人たちのように思えた。台北に来てもお互いに接点の持ちようがなかったはずだけれど、あのとき特に理由なく歌っていた。
「もしもあなたと逢えずにいたら わたしは何を してたでしょうか」
一緒に歌うはずがなかった人たちとテレサ・テン。
起こるはずがない、出会うはずがなかった人たちと交差した時間が何より静かに劇的に残った。

能 金剛流『道成寺』

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金剛流能楽師、宇高竜成さん主催の「竜成の会」で『道成寺』を観た。
「竜成の会」は年に一度開催されていて、今年で5回目になる。ご縁があってほぼ毎年拝見しているけれど、最初に演目についての解説があったり、その年の演目のテーマに沿ったゲストを招いてのトークなどが入る。例えば昨年の『谷行』では修験道がテーマで、それにちなんで修験道の祖・役行者(えんのぎょうじゃ)の弟子である五鬼の子孫にあたる方と仏師の対談、一昨年の『石橋』では獅子の親子を竜成さんの父である通成さん、弟の徳成さんの親子三人で演じられ、さらに能面作家の姉、景子さんが打った面を使用する実際家族総出での上演という、そこまで能に詳しくない人にも親しめるよう工夫されている。

今年も始めに『道成寺』の見どころをわかりやすく解説してもらえたので、まず茫漠とした心境でお能を拝見する、という強張った構えをほぐしてもらったところから上演を見ることができた。
前半は仕舞『鐘之段』と狂言『鐘の音』。『道成寺』にも有名な鐘入りの場面があるけれど、今回は他の演目も鐘で統一されてる。仕舞『鐘之段』では、ある詩人が「今宵一輪満てり 清光何れかの処にか無らん」という句を思いつき、うれしさのあまり真夜中に鐘を撞いて人々に咎められ「詩に狂ってしまいました」と答えた逸話があるらしく、子供を探す母親が三井寺にやってきて、その逸話を引いて鐘を撞くという一場面が舞われる。鐘は「撞く」もので「月」に縁があるらしい。そういえば精神に異常をきたす、常軌を逸するという意味のルナティックという言葉があるが、ルナも月。狼男も月夜に変身するし、月は古今東西どこか人を狂わせている。

狂言『鐘の音』では本来の言いつけである「付け金の値」を聞いてこいというのを「撞き鐘の音」と聞きちがえた家来が、鎌倉の寺院を巡って鐘の音を聴き比べ、主人に報告するというどうしようもない話で、そのどうしようもない話の道中に観客全員付き合っている状況がまずおかしく、内容はそんなふうでも狂言師の微妙な間合いの作り方、声と体の抑揚は観客を引き連れていく魅力を持っている。

休憩を挟んで『道成寺』。10代の頃、南座で坂東玉三郎の娘道成寺を観た。それがおそらく初歌舞伎で、とにかく豪華で色華やかで、坊主がたくさん、玉三郎は妖艶というくらいの記憶だが、歌舞伎や浄瑠璃は能の『道成寺』を元に作られている。『道成寺』は能楽師にとって登竜門となる演目で、そういう舞台に初めて挑むことは「披き(ひらき)」と呼ばれ、ひとつの節目となる。
能のどの演目でもそうだけれど、私はまず舞台上に大道具も何もないところから始まり、最後にまた何もなくなるところが好きである。本当は最後全員が舞台からいなくなるまで上演なので、拍手はいらないのだけれど、それを知らないと演者を拍手を送るべしと皆拍手をしてしまう。そうなるとあえてしないのも居心地悪いので、つられ拍手をしているが、本当は無音であの最後の時間を見ていたい。
『道成寺』の鐘は庭の番の役どころの狂言師によって運ばれてくるが、物語としても久しく鐘のなかった道成寺に新たに鐘が釣られる、というところから始まる。この鐘釣りのくだりが見ていてもなかなか大変そうで、地謡方、囃子方、ワキもワキツレも後見も、すでに20人近い人が舞台上に勢揃いしているところに担ぎ込まれ、2本の棒を使って狂言師2人で釣るそうとする。フックのついた棒は天井高くらいの長さがあり、舞台上で回転させることも他の出演者に当たらないよう慎重に動かさなければならないし、スムーズにいかない。そもそもスムーズにやることに無理がある。そこが人間的な笑いを引き受ける狂言師の役割になっているのは、演出的に考えられてるなと思う。どうにか鐘は釣るされた。白拍子(男装で舞う遊女)のシテがやってくる。寺の中は新しい鐘の供養の期間女人禁制だと門前払いされるが、面白い舞を舞うからと説き伏せて白拍子は中に入れてもらう。
烏帽子を被った白拍子の「乱拍子」が始まる。「乱拍子」とは、シテと小鼓が1対1で間をはかりながら小鼓に合わせ一歩ずつ三角に回る、という白拍子の芸を元に考案された動きで、かなり大きな間をとる。なので動きというよりシテは止まっている時間の方が圧倒的に長い。昔ラジオで放送された時は、無音の時間があまりに続くので放送事故と思われたという。
会場全体が固唾を吞んで静止の時間に同行する。小鼓とシテはどうやってタイミングを合わせているのだろうと見入る。耳をすますと小鼓を打つ前に鼓の紐を引き締める音が聞こえるので、シテはこれを聞いているのだろうかと思っていた。実際には両者の呼吸の回数を合わせていると後から伺った。常に音に反応するアンテナが張り詰められているのは2階席から見ていてもわかる。
ポンという音と共にシテの爪先がツッと上がる。そのまましばらく静止、でまたポンと鳴ると爪先の角度がツッ変わる。それくらいミニマルな動きで、シーンとしては30分くらい続く。舞台上のその他の出演者はその緊張の中に座したまま。こんな挑戦的な演出があるのかと感心していたけれど、道成寺が作られた当初の乱拍子は現在の倍の長さがあったそうで、さらに驚く。でも能にはどこかそういう挑発的な精神があったのかも知れない。私は囃子方の声をどうしてもシャウトと呼びたくなる。
静寂の乱拍子の後は急に加速する「急之舞」そして鐘の中に入る「鐘入り」と見せ場が続く。この鐘に入るところは流派によって入り方が違うそうで、金剛流は烏帽子を脱ぎ捨て斜めから飛び込む。シテも鐘の綱を握る鐘後見も絶対にタイミングをはずせない。能では本番までに装束や面をつけた状態で稽古をしないので、稽古段階と本番では視界も衣装の重さも違うし体感的には相当な差があると思う。本番中の意識は役どころに集中しつつ身体感覚は微調整を絶え間なく行いながら動いているのだと思う。装束は装飾的な理由だけでなく、表面張力のようにギリギリの状態に立たせる装置として機能しているようだ。
竜成さんは今「風姿花伝」でいう能楽師の絶頂期の年齢に近い。20代の頃の舞台を拝見したこともあったけれど、声の響きや動きのキレ、静止の間にもただ止まっているだけではない充実を感じた。ひとりを何十年も観続けることができるというのも、長く舞台に立ち続けることのできる表現だからできることで、同じく加齢していく観客としての自分自身の時間感覚や、受け取れるものの変化も感じられるのではないだろうか。

能にはカタがあるけれど、決まった習得方法がなく、師匠によってそれぞれの方法で伝達されるものだそう。カタはまず自分の外側にあり、はじめは体に沿わない。けれど、何度も反復しているうちに自分の体に沿っていく。それは例えば私自身も俳句やカタの踊りをしていて実感するところである。そのことを竜成さんは無鄰菴の小誌インタビューで「ファッションに例えるとプレタポルテでなくオートクチュール」と話していた。「自分の体にぴったり合ったものでないとカタとは言えない」と。

主観的な体感の基準から一旦離れて、別の形式をインストールし、日々変わる体と共に何十年もカタと過ごす。それは自分に外部の視線を挿入することと重なる。そこからようやく自分の形状が見えてくる。この見えてくるという感覚は「離見の見」にも関わると思う。能以外の芸能、現代演劇やダンスでも、演者は舞台上にいる自分の姿を演じつつ見る視線を持っているけれど、竜成さんは上演の時間に限定せず「自分が死んだ後の世界や生まれる前の時間のことを想像することも、一種の「離見の見」だと思います」と語る。これはすでに死者となった体に引き継がれてきたカタ、まだこの世にいない人にも受け継がれていくカタを身体化することから実感された率直な言葉であると思う。上演の外の時空にも離見の見が、演技の範囲よりも広がっていく。
カタは強固な価値観のようで、けれど本質的には定型ではない。ひとつの視点を定めてくれるものではあるけれど、少なくとも人間を定型化するようなものではないと思う。おそらくその逆なのだ。目に見えて逸脱したことをやろうとしなくてもよい舞や踊りは、人間は定型のカタになど収まらないということを、理屈でなく気づかせてくれる。