文字の体

moji

こういう文章や詩を書いているけれど、正確には書いているのではなくて全部打っている。モニター越しにゴシック体に変換され、きちんと整えられた文字が並んでいくのを見ているのが気持ちいい。自分の筆跡を離れた言葉を眺めていられる距離感にすっかり親しんでしまっている。

いざ手でものを書こうとしたときに漢字が書けなくなっているという話はよく聞く。それは書けていた頃と比べて退化したような語られ方をしがちで、出来ていたはずのことが出来なくなることへの郷愁もよくわかる。けれど変換候補のなかから正しいものを選ぶことができるなら別段、それに候補に表示された同じ音の別の漢字から言葉が発展する契機をもらうことだってある。記憶は頭からはみ出している。
そうは言いながら、吉増剛造の展覧会で見た数十年分の膨大な筆跡の変遷や、その展示のなかにあった中上健次の文字それ自体がフィクションのような独特の字体を眺めながら、やはり手でしか書けないものもあるはずと思っていた。
本を読んで引いておきたい言葉を見つけたときだけは手で書き写す。それは線を引いたりするだけでは言葉が腑に落ちない感じがするからで、インプットは書くアウトプットは打つというふうに棲み分けてしまっている。
手で文字を書ことについて考えていたとき、書道というものがあったことを思い出した。字を書くことに異様な集中を要するあの時間はどんなものだったか。

書道の先生になった幼なじみに会いに行った。
自宅に教室スペースを作って教えている。字を書かせてほしいと頼んだら快く教室を使わせてくれた。
小学校までは書道を習っていたけれど、まともに筆を持つのは義務教育以来だった。好きなのを選んでと渡された小学生用のお手本の束。幼児、小一用は「うし」とか「かさ」とかひらがな二文字で「こい」というのも出てきて、なんだ急にませてと思ったけれど魚類の方だった。低学年向けは漢字二文字でその中の「先生」というのを書いてみることにした。

墨のにおいを久しぶりに嗅ぐ。後頭部が静まる。筆を墨汁に、後頭部の静けさを背中から全身に浸し、穂先と姿勢を整える。半紙の上に筆を持ってきて、「先」の一画目のちょん、この短いはらいをするのも躊躇する。今ほとんど躊躇せずこの「ちゅうちょ」というのを漢字に変換したけれど、たぶんこの字を手で書いたことは一度くらいしかないし、足の横がなんか複雑としか覚えていない。怯えながら引いた線は、引いたというより半紙に筆を取られのろく染み、紙の上を這ったようにもたついていた。
先生に「先生」を書くところをみせてもらった。筆を動かす速度は変わらないのに線の勢いが全然違う。線は腕じゃなくて体全体を使って引くのだと教えてくれた。確かに腕は筆を固定しているだけで、胴体を使って線を引いていた。字のバランスを取るためのいくつかのコツと、力の入れ方を教わったら最初の字とはずいぶん変わってきた。
紙が何枚あっても一筆目を入れる度にああもう戻れないと思う。書くあいだ「先生」は意味を持った言葉から、筆のとめ、はね、はらいを誘導する抽象的形状となり、書き終えて筆を置き改めて見るとまた「先生」という言葉の持つ意味が充填されている。意味を書こうとしているのでなくて字を書いている、意味は与えようとしなくても字がすでに持っている、だから線を引くことに徹すればいいのだな、そんなことを思った。けれどそれはきっと文字を書くこととのかりそめの接触で、書くことも極めていった先には文字の持つ形や意味に収まらないものを筆によって運べる境地があるのだろう。
先生が「先生」に朱を入れてくれた。マルをもらうのは大人になってもちょっとうれしい。

いくらでも書いて消して並び替え編み上げる文字とのつき合いもあれば、戻れないというやりとりのなかでの文字との交際もある。それらは全く違うけれど、文字を介した創造的時間という点で交差する。手で書くことを効率の価値観から見切って捨てるのは惜しい。書くことから体感に書き込まれることもまだまだあることを知った。文体に書体という体だってある。

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