ビリー・ホリデイの歌のことについて書こうとしているのではないけれど、タイトルを奇妙な果実と決めたところでイントロが頭の中で流れ出す。
季節になってスーパーに無花果が並ぶようになった。数ある果物のなかでいちばん好きなものをあげるなら無花果と答える。広い庭を持ったら必ず無花果の木を植えたい。けれど食べながら常々奇妙だと思っている。
りんご、みかん、バナナなどと比べると、味も香りも触感も捉えどころがない。不明瞭なものを食べている感覚に陥り、何度食べてもよくわからないのでまた口に入れたくなる。
冷蔵庫で冷やして皮は剥かないまま縦半分に切る。皮に近いところは白っぽく、それが真ん中に向かうにつれて薄ピンクがかり、触手のようにわらわらと細かく分岐した群れが中心に押し寄せ、これ以上はもう行き場がないというところでゼリー状になって凝集している。止まっているけれど、動的なものを含んだまま止まってしてしまった、というふうに見える。独特の青くさいにおいがあるのに食感はほとんど溶け去る。
最近知ったのは、無花果は花の無い果物、と書くけれど花は無いのではなくて、あの果実の中のわらわら集まっているものが花であるらしい。つまり無花果を食べるとは正しくは無花果の花を食べているということになる。
無花果の花はもともと房状に咲いていたものが進化の過程で花の軸の方が肥大化して、周りに咲くはずだった花は中央から中に落ち込み、最終的には元々花の軸であったものが外皮となり、ひっくり返ったかたちで咲くようになったものだという。外側に向かってひらく花一般のありようとは真逆のかたちをとっている。それは見た目で言えば禁欲的な咲き姿のようだけれど、本来的な外側が内側に反転してしまったありさまは、咲き誇る花の率直な美しさや芳香にはない陰った媚態を呈している。隠されたものは見たくなる。
人の体が裏返ったらと想像してみる。手袋を裏返して脱ぐように表面であったものが内側に、肉や内蔵が外側に、目も耳も内側に入ってしまう。普段外界を知覚しながら様々なことへの反応、動機と共に動いているのとは違う意識の届かない内蔵の動き、血の流れ、細胞の分裂、能動的に生きている以前に受動的に生かされているひとつの肉塊の、生物であることを思い出す。
季節のあいだにあと何度か無花果を食べるだろう。その度私は台所で裏返る。