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米ひと粒の中には7人の神様がいる、といつだったか小学生だった妹がどこかで教わったらしく茶碗を片手にそう言った。ひと粒あたり1人でもありがたく、十分ありがたみはわかるのに7人、どうしてそんなことになったのか。けれどそういう発想が生まれて今なお滅びないくらい、あの粒のなかに7人と言っても世間一般に浸透するくらい、日本人にとって米は脈々と大切な食べ物であったのだということは伝わってくる。ただそれを聞いて以来、時々ご飯をよそうときに、炊飯器の中に過密な炊き立ての神様がぎちぎちになって蠢いているのを想像してしまって、急いで炊飯器のふたを閉めることがある。

米の炊き加減の好みは家によって結構違うようで、祖父母と同居していた家は柔らかめが普通になっていることが多いらしい。実家がそうだったのでおのずと柔らかめでもちっとしているのが好みになっていた。
実家を出て人と暮らすようになってからも炊飯器をセットするときは線よりちょっと上に水加減をするのが癖になっていた。無意識にそうやっていたらある日度が過ぎたようで、食卓ごしにちょっと米が柔らかすぎると告げられた。それでおかずと米をかき込みたい人は、米粒がしゃきっとしていてほしいのだということがわかった。話し合いの末、米は炊飯器の線ぴったりに合わせることで落ち着いた。
知り合いに東南アジアの人と結婚した人がいる。その国も主食は米で、パートナーの方は幼い頃に貧しい思いをしたこともあって、米がないことを不安に思うから常に冷蔵庫に炊いたご飯が入っているという話を聞いた。つまり食事時に合わせて炊飯器を仕掛けるというより、ないと気付いたらすぐに食べなくてもいつでも炊いておく、という感覚なのだそう。だからいつもご飯は炊き立てというわけではないという。生活のあいだにはいろんな米のあり方がある。

なんだか心が荒んだときなど、ささくれ立った暮らしをいつもより丁寧にしようと心がけるときは鍋でご飯を炊いてみる。米と同量の水を注ぎ、火にかけて沸騰してくる音を待つ。鍋で米を炊くのは儀式的な感じがする。水と火と米。生活の儀。
沸騰してから火を弱めて12分、火を止めて蒸らしに10分。吸水さえできていれば所要時間は炊飯器の早炊きと変わらない。
火を止める間際に数十秒だけ強火にして、鍋底でかすかにぱちぱち音がするのに耳をすます。やりすぎると焦げるけれど、慣れると少し香ばしさがほしいときにねらったおこげを作ることができる。

青田だった稲はいつの間にか稲穂が垂れて、もうあの粒の中には7人の神様が揃っていらっしゃる頃だろう。

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