例えばあのときアディダスじゃなくて、ニューバランスのスニーカーを選んでいたら、足の裏はまたこことは別の地面に接触していたかも知れなくて。いつものように路地から路地へもぐりこんで、年月の経つうちに育ちすぎ種がとび、できあがったその家独自の軒先生態系および、はがれた張り紙、錆びたトタン、すすけたレースのカーテン等に親しみを感じるのではない新たな足取りで、ニューバランスの新しい均衡を得ればもっと、別のものが見える視力も自ずと組織されるはずで。それどころか最近では、これはサンダルですか、スリッパですかと問えば、十中八九スリッパに分類されることうけ合いの近所のスーパーで購入した580円のゴム製のはきものを履き、電車に乗って隣の県まで赴いてしまう。いい靴を履いていればいい場所に連れて行ってくれる、と書いてあるマンガを昔読んだことがあって、それは今もわりと信じているけれど、時々信じていることと逆のことを差し挟んで反射光を浴びることにしている。一方向だけの信心では光の当たらないところにムラができるからだ。間違いないことはいかなるスニーカーであっても、真夏に足の全面を密封するようなはきものを履くことは、全然気が進まない。
炎天下の軒先に並ぶペットボトルの中の水は蒸発も循環もゆるされないまま整列を続けている。透明なペットボトルを直射日光が突き刺さり突き刺さるなか、身動きの取れない水はおそらくとっくに発狂水で、そもそもの目的であったはずの忌避すべき野良の猫さえ平然とその傍を通り過ぎているだけだというのに。未だ整列を続けているあれは一体苔のむすまでそうやって並び続けるつもりなのか。エアコンのホースから水が滴った。それも逃げ水と呼ぼう。
あのペットボトルの水のことを考えるたび、私の体のどこかが煮えてくる。これは体内の水が同胞たる水に反応しているからに違いない。あの水を私の水は逃がしてやりたい。あの水をここからできるだけ遠く離れた、それなりに雄大な滝つぼなどから、とめどない湧水の流れに身を任せ我を忘れて滔々と、あの無意味さから放ってやりたい。