ロームシアター京都でチェルフィッチュの「三月の5日間」という演劇を見た。2003年の東京を舞台に書かれた戯曲で、当時イラクでは戦争が起こり、中国では新型肺炎SARSが流行り、レスリー・チャンは飛び降りた。
それから15年たった今、20代の俳優と共にリクリエーションを経て上演された。戯曲を読んだことはあったけれど、私は初演を見ていない。
劇の世界は2003年、ちょうど出演している俳優たちと等身の年齢のバイトをして暮らす若者たちの5日間の物語。アメリカがイラクへの大規模軍事行動を開始するという頃、街ではそれに対する抗議デモが行われ、そんな中ある晩ライブハウスで出会った男女はその夜渋谷のラブホテルに行き、そのまま5日間ホテルで過ごす。そのあいだのことを俳優は入れ替わり立ち代わり語る。物語に登場する人物の役は固定化されず、目の前の人物の記憶について代弁していると思ったらその本人になっていたり、登場人物同士の対話になっていたりする。観客に向かって語られているという感覚が強いのは、俳優がほぼずっと観客の方を見ながら喋っているからで、もちろん演劇はどういうものでも観客に向かって話しているに違いないけれど、一般的な芝居で観客は俳優の目に見えてはいても、「役」の視線からはいないものとして扱われる。観客にむけての「今から〜っていうのをやるんですけど」と言う語りかけはもちろん他の台詞同様書かれた台詞でありつつ、芝居の手前の立ち位置からまずこれが劇であるという枠組み自体を強調する。登場人物の雰囲気から虚構の設えは観客席に近いように一瞬思えるけれど、そこではっきり境界が敷かれる。固定化されない役柄と共にそういった遠近感があり、虚構の境界の危ういところにきわめて演劇である時間が発生する。演劇の梁がよく見える構造になっている。
他のチェルフィッチュの作品にも見られる、無意識的な動きの癖を発端とするような所作の誇張、あるいは削ぎ落とし、さらに意識的にずらしたりしながら反復される意識の外にある所作を積極的に召喚する動きは、体としてなんとかまとまっていながらばらけていて、いわゆる洗練らしく見えるものを否定する態度が創意に貫かれている。徹底して微妙な身体操作が俳優の体で為され、現代の口語から抽出される、例えば文字に起こすといの一番に省かれそうな言い回しが緻密に残され、多角的な視点を織り交ぜて書かれた台詞を発声することから体の様態、質感が導き出されていることが上演を見るとよくわかる。
アフタートークを聞かず劇場の外へ出た。終演後、まだ動いているものが自分のなかにあった。今回の上演から私が観客として読み取ったものには、最近考えていた日本人というものついて、くすぶっていたものに点火するところがあった。そういうことが起こるのはこの作品が、その劇における症状を的確に表しているからだろう。ただ劇中見られた体は2003年当時の鮮度から熟成を経たリバイバルというふうに受け取れる部分もあり、そしてその先の体のありようはまだその後の舞台表現のなかで嗅ぎあてられていない。今回の上演に見られる様態を大らかに良きものとする客席の雰囲気と自分の体感にズレがあった。私は苛立っていた。ただ感心してる場合じゃない、今この作品を見ることは焦燥感と共に人を鼓舞するものがあると。
最近日本人にとってこの先、成熟ということがあるとしたら、どういうことが考えられるだろうかと思い巡らせていた。例えば劇中に抽出された体の根のなさ、ぶれ続ける重心は私たちを取り巻く、社会、経済、環境が作り上げたものであるとしたら、脈々と受け継がれてきた自分の生というものが、それとはまるで切断されて生きているような体感と、同時に身に付いた価値観や思考を通さずに知覚できない現実のあいだで、さらに強烈に地面から揺さぶられたあとの世界で、現在形の体はどのような症状を呈し、また何を求めるだろうか。
劇場に足を運ぶのはフィクションの時間を設えた場で、同時代に生きつつ表現された人間の姿を見たいからで、舞台芸術は体を介して観客の思考の能動につながる力を本来的に持っている。
今まで茫洋と受け取っていたラストの、ホテルを出たあとひとり歩く女がホームレスの脱糞する姿を犬と見間違って吐くシーンがある。女は人間と動物を見間違えた時間が数秒でもあった自分がおぞましいという理由で嘔吐する。そこで女に起こった反応というのは、今回私の目には希望であるようにうつった。