月夜釜合戦の夜

tsukiya

寒い夜、京都みなみ会館に「月夜釜合戦」という映画を見に行った。

大阪の釜ヶ崎で撮影された劇映画で、多くの映画がデジタル撮影に切り替わるなかこの映画は16ミリフィルムで撮影されている。上映後、佐藤零郎監督の舞台挨拶があり、フィルムでの撮影にこだわった理由のひとつに、フィルムなら釜ヶ崎にあるにおいを撮れるのではないかということが挙げられた。 2年前に一度だけ釜ヶ崎のまちを歩いたことがあった。そのときのことを「釜ヶ崎の一時間」に書いている。8月の夕方、動物園前の駅から地上に出て、労働現場から帰ってきた肩にタオルの男の人たちに紛れて歩いていくと、進むにつれ西日に蒸されて隅々からアルコールの混ざったアンモニア臭が立ちのぼった。呼吸するたびにただ息をしているというより、そのにおいを肺に吸い込んでいるという感覚があり、鼻がその場のにおいに馴染んでいない私は余所者だった。監督は2005年から釜ヶ崎でドキュメンタリー映画を撮ったり、炊き出しなどの活動を行いながらそこで暮らしている。まちの臭いを釜ヶ崎が釜ヶ崎であるバリアのようなものと例え、けれどそれも年々薄まってきているという。

16ミリフィルムにはデジタル撮影で撮られたのとは違うざらついた質感がある。デジタルはとにかく鮮明に絵を写すけれど、そういうざらつきを伴った媒体を介する方が監督の嗅覚や肌から感じる視覚以外の場所そのものを取り込めるのではないかということだった。

デジタル撮影動画を見慣れた目にフィルムで撮られた映像は、現在の風景を撮ったものでも経年を加えられたように見える。「月夜釜合戦」はフィクションの物語であるけれど時代設定は現在であり、映画の質感からそこにある風景や営みは失われつつあるもの、過去になりつつある現在という感覚が増幅される。さらに物語の中には羽釜がよく登場するが、現在の時制のなかに遺物のような生活道具が出てくることにぐっと過去に引っ張られるような妙な違和感も伴い、登場人物の雰囲気にもそういう時制の違和感が配されている。物語はひとつの釜をめぐる人情喜劇で、プロの俳優だけでなく釜ヶ崎を生活の場としている人たちも単なるエキストラでなく役柄を担って出演している。そういう人たちにどうやって出演交渉をしたのかという観客席からの質問に、テント村強制立ち退きの反対デモや娯楽映画の上映会をするなかで出会った友人たちですと監督は答えた。プロの俳優は役柄を的確に記号的に演じ、普段そこで生活をしている俳優は台詞を覚えて喋るという痕跡の残った演技をするけれど、それに対して甲乙の感覚がおこらず、統一感のない演技の共存がむしろ多様さを巻き込んだ場の力として映っていることがとてもよかった。コンセプトだけでは実らないものが時間をかけて育まれ、一朝一夕で作れない基盤があったからこそ生まれた映画であることは間違いない。

行政がお仕着せようとするクリーンなまちは、それまでの生活や人のつながりを断ってしまうことを厭わず、体制のなかに組み込めないものを排除しにかかる。のっぺらぼうのクリーンや再開発はときに培われた場と人の営みの肌理を塗りつぶしてしまう。この映画はそういう無作法な圧力への抵抗でもあり、映画として整えられたものよりも、そのなかに自生のものの動きを見るようだった。

今回上映のあったみなみ会館は今年の3月で一時閉館される。2018年度中に営業再開が目指されている。数少なくなったフィルム上映のできる映画館でもあり、シネコンで上映されないコアな作品をかけてくれる大切な映画館である。移転先が見つかり再開されることを応援したい。

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