シャッター音の周辺

shutter

荒木経惟の写真モデルをしていたKaoRiさんという女性が、アラーキーとの仕事に関して黙していたことをブログで公表した。彼女は16年間ミューズのように度々登場し、写真集で見かけた切れ長な目が印象に残っている。
これまで彼女が主な被写体となった写真集やDVDの出版に関して事前の相談もなく、名前やイメージが勝手に使用されて一人歩きする状態だったという。さらに虚実入り交じったアラーキーの言動に誘発されるふたりの関係への憶測や誤解のなか私生活に支障を来たし、環境の改善を訴えてもまともに対応されない扱いを受けたことへの告発だった。彼女には報酬の交渉や仕事内容を選択する余地のないまま、名の通ったアーティストのふるまいにモデルは逆らえず、都合良く扱われるままだった経緯が冷静な目をもって書かれている。
一方的で不均衡な関係性のままモデルからイメージのみを搾取し、普通に日常を生きなければならない彼女はないがしろにされていた。さらに撮られた姿が不特定多数の目に晒されるという仕事に対する撮影者側のセンシティブさは欠落し、モデルは言われるがままなんでもやって当然のような麻痺状態にあった。そこに彼女を逸材と認める目があったとしても、クリエイションに関わるモデルへのまっとうな意味でのリスペクトではないし、思うがままに扱われる主従関係が成り立ってしまっていた。KaoRiさんの告発する内容に関してアラーキーを擁護する余地はない。

KaoRiさんの告発を受けて巻き起こった反応のなかには、アラーキーの写真は最低であるとかただのエロじじいとか、前から好きではなかったがやはりと批判するものが目につく。1999年に書かれた浅田彰の草間弥生とアラーキーを比較した批評「草間弥生の勝利」が引き合いに出され、草間弥生は本ものであり強者であり、対してアラーキーは「センチメンタルな物語にすがることでしか生きられないひ弱な」弱者のありかたであるという批判に同意するといった意見を見る。けれどこの批評を今回の一件で初めて読み、あまりに大掴みではないかと感じた。どういう状況であっても作品を生み出すエネルギーの質の違いを強弱、勝ち負けのような硬化した大雑把な言葉で表現されることに私は疑いを持つ。センチメンタリズムを単にひ弱と切って捨てるのは、まるでゆらぎや中間色を奪って世界を無味無臭に脱色するかのように思える。目に見える明瞭さや強度だけでは届かない場所が人間には必ずあり、そういう部分に浸透するものを人は必要とする。それは弱いからではない。
こういうときに淀みなく言い切られた批評の言葉が加勢として使われるのは感情として理解できるけれど賛同できないので、もう少し批判すべき点と作品のことは分けて考えたい。KaoRiさんの告発に関してアラーキーを擁護する余地はない。これはまず写真家とモデルの力関係の不均衡、契約、モラルの問題で、言うまでもなく改善されるべきことである。

写真に関して言うなら、アラーキーは単にセンチメンタリズムにすがった作家ではないと私は思っている。騒ぎに乗じてアラーキーを批判している人の中には、注目されやすい緊縛や過激なヌード写真しか知らないまま『東京は、秋』や『東京人生』の風景写真などをきちんと見ていない人も多いのではないか。写真として純粋に惹かれるものがこれらの写真集にはたくさんある。
そして良くも悪くも感傷に分け入って主体でありながら客体としてそれを切り取ったうえで物語化し、またそこに同期する能力を持っている写真家であると思う。おもちゃの恐竜なんかを並べて撮ったとりつくしまのない写真群からも、妻を亡くした喪失のあとに残された時間の膨大な余剰として見てしまう。けれどこれは私的なものと写真が重なった結果、物語の中でなんでもありになっているがゆえに見るに耐えられるところがある。ただ純粋に写真を見ているのとは違う軸によって支えられている。そういう物語のなかに身を置くこと、演じることがうまい。ずるいとも思う。

私は若い頃、妻である陽子さんとの日々を撮った『センチメンタルな旅』に心を動かされた。妻を撮ることに対して日常を撮られ作品の犠牲にされたという批判も騒動のなかで目にした。そういう人は陽子さんのエッセイ『愛情生活』を読んでみると単に犠牲というのともまた違うことを感じるのではないかと思う。日常、プライベートを撮られること、例えばそれがセックスの最中だったとしても、その写真が人の目に晒される可能性をもってしまうとしても撮られることは彼女にとって一種の快楽であったことが綴られている。陽子さんというひとは〈俺の言うことを聞いてたら間違いないから〉という傲慢さで誰とでも付き合う傍若無人な写真家の夫を「この言葉の裏に、テレを含んだ男のロマンチシズムを感じてしまう。」と受けとめていた。「女としての魅力が私にあるとしたら、夫のマナザシや言葉によって作られているのではないかと、つくづく思う。」「近頃、私は自分が女であるという事を、前にも増して意識しようとしている。それは、私にとって気分がいい事だから。」この言葉に対して嫌悪に近いものを抱く人もいるかも知れない。けれど常識や規範に沿って型にはめこまれて女になっていくのとは違うことと思え、エッセイを読むとマナザシによってすすんで女になっていく陽子さんはむしろ女としてとても解放され、楽しんでいるように見えた。そこには犠牲にされたという言葉だけでは括れないものがある。アラーキーが陽子さんを利用していたというならば、陽子さんもまたアラーキーのマナザシを利用していた。このカタカナ表記のマナザシは眼差しではなくカメラごしのそれだろう。
『センチメンタルな旅』を初めて見た20代前半の私はこの写真集に編まれた時間、重ねられた日々と死による別離、亡きあとの余剰を見て、今より人生にずっと刹那的な感覚の強かった当時、それよりも続きのある物語の内容を、感情を知りたいと、それを人生において演じることにあこがれたのだと思う。
アラーキーの写真家としての仕事に良きものを見た記憶をもっていた者としては、今後この写真家がまちがいなく改めるべきことのあるなかで、もう一度その写真のことを丁寧に考えてみる必要があった。

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