大阪、地下鉄の恵美須町という駅で初めて降りた。商店街には家電量販店が数件、その隙間にジャンクショップ、ゲームショップがちらほら。賑やかな電気屋街だった気配はある。私の用事は観劇だったが、開演まで2時間もありお腹が空いていた。商店街にはバーガーキング、少し歩くとサイゼリア。数十年ぶりのサイゼリア。迷うことなくミラノ風ドリア。斜め向かいの席にインド人女性と日本人の男女。インド人女性のカタコトの境遇が断片的に聞こえてくる。レンラクトレナイ。店内は必要以上に冷房が効いている。ユクエフメー。ミラノ風ドリアで温まった体はあっという間に冷却され、店を出る頃には凍えていた。
恵比須町駅のすぐ傍にあるin→dependent theatre 1stに、ももちの世界「鎖骨に天使が眠っている」という演劇を見に来た。舞台上には金網と民家の裏庭のような場所、プレハブのようなガレージが建っている。この作品の舞台になっている場所は、宇治川の堤防下に所狭しと並ぶ家々とある。セットの雰囲気からローカルなにおいが漂ってくる。
冒頭、主人公義男の第一声、友人である透に向けて発せられる「口紅、塗ってぇや。」
この最初の一言で3つのことが喚起された。1つ目は男性によって演じられている義男のセクシュアリティについて。そして納棺師である透に要求される口紅は死化粧を想起させた。つまり冒頭の時点では「行方不明」とされている義男はそこにいるけれど、すでに死んでいる可能性があるということが示唆される。3つ目は口紅を「塗ってぇや」とねだる相手への好意のあらわれ。最初のたった一言で物語の核となる義男の人物像が説明抜きに示された。その言葉の選択がまず見事だった。
ある夜「行方不明」だった義男が自宅に戻って来たのは父親の通夜があったからだった。納棺をつとめたのは透だった。突如目の前にあらわれた義男を前にした透の沈黙の後、久々に再会したふたりの高校生の頃の思い出話が始まる。義男の家の屋根には女性器のらくがきと何度もペンキで塗り直した跡がある。義男は俺のせいやなと言う。透はお前のせいじゃないと答えるけれど義男は納得せず激昂する。
時間はふたりが高校生だった10年前に巻き戻る。義男の姉一恵と一恵の親友で葬儀屋の娘である柚香、義男の父親と母親があらわれる。父はバスケ部の監督で義男もいやいや所属し、透はエースで一恵に気があってCDを貸し借りしたりしている。一恵は友達のいなかった弟と仲良くしてくれる透には好感を持っている。義男は透にねーちゃんのパンツ欲しいかと尋ねたり、ミスチルのイノセントワールドを流して透にストリップショウを披露したり、一恵は好きな人が自分ではなく柚香に告白したのを知って落ち込んでいたところ、たまたま居合わせた透に付き合おうと言ってみてすぐ冗談と取り消す、という青春物語が繰り広げられる中、車の急ブレーキと猫の声が鳴り響く。
義男の家の前の堤防沿いの道路は細く、猫がしょっちゅう撥ねられる。また一匹撥ねられた。見に行こうとする柚香をえぐいからと一恵は止めるが、柚香は猫の死体に素手で触れ、空き地に埋めた。一恵は猫の死体を見るだけで気持ちが悪くなる。自分には到底できないことをやってのけ、人気もある柚香に憧れと悔しさの混在した感情を抱いていた。猫が撥ねられる音は劇中通底音のように何度も繰り返される。また撥ねられた。猫の鳴き声がする。意を決して猫を助けに行くが、そこで一恵は車に撥ねられ死んでしまう。
義男は一恵のブラを自室で勝手に着けたりしていたけれど、一恵は怒らなかった。義男の誕生日にはとっておきのものをプレゼントすると約束していた。内緒で義男に口紅をさしてあげた夜もあった。一番の理解者であった姉を失った義男は自室にしていたガレージに引きこもる。父は義男の心境を理解せず、無闇に出てこいと怒鳴り散らす。母はそんな父を見て取り乱すのは私の役目やとたしなめる。
透も義男にスターウォーズを観に行こうやと2時間呼びかけるが返事はない。柚香は義男が透と一恵をくっつけようと相談してきたことがあると話すと、激怒して帰ってしまった。
柚香の語りかけに義男はようやく外に出てきた。柚香はなぜ人は死ぬのかと問い、それは言葉を持っているからで、死という言葉に捉われず別の言葉を信じれば、いつも一恵に会えるのだと説明する。全然わからないという義男に柚香は例えばと義男の鎖骨に触れ、「君の鎖骨に、一恵は眠っています。」と告げる。
演劇であれ映画であれ、見て泣いたという感想をあまりあてにしていない。本人の経験やコンディションによるところが大きいと思うからだ。私は観劇で泣くことがないけれど、鎖骨のくだりで涙腺がゆるんだ。それは物語の進行の中で、この台詞が作用するフィクションの厚みを受け取れていたからだろう。上演に同行しているという感覚があった。それくらい物語に牽引力があり、演じられる体にも引力が宿っていた。
義男は元気を取り戻し、悲しみを繰り返すまいと猫飛び出し防止ネットを堤防に張り巡らせようとはりきっていた。そこへ堤防で撥ねられた猫の写真を撮っていた拓次に出会う。拓次は戦場ジャーナリストだが、仕事で来てふらっと写真を撮っていた。拓次は不器用で自分にどこか似ている義男に親近感を持ち、カメラは本当を映すから撮ってみるといい、と使い捨てカメラを手渡す。ふたりは会って写真を見たり話したりするようになる。ある日義男はもう自分に嘘をつきたくない、自分を撮って欲しいと拓次に頼む。その夜、自室で拓次にポートレートを撮ってもらった。
それから義男は変わった。化粧をして学校に行った。学校はやめて写真家になりたいと拓次に話す。それを知った父親は恥をかかせるな、頭がおかしくなったのかと怒り狂う。義男はなぜ化粧をするのか、学校に行きたくないのか理由を聞いてくれないこと、バスケなんかやりたくないし、自分の体も義男という名前も大嫌いで、ねーちゃんじゃなくて俺が死ねばよかったと思ってるやろ、と黙っていたことを全てぶちまける。父は掴みかかろうとしたが、言い返せずその場を去った。表からは同級生たちの今日は化粧しないのかと嘲笑が聞こえる。透も黙っているがその中にいる。義男は透に来週の花火一緒に行こうと声をかけた。
義男は拓次と一緒にトルコに行きたいと言い出した。拓次がやっぱり連れていけないというと、義男は怒って、勢いひとりでトルコに旅立った。すぐに拓次も追ってトルコに向かった。トルコからふたりはシリアに入る。ここからふたりがシリアで見た風景が、拓次の妻が最後に受け取ったメールの内容として淡々と語られていくが、その間舞台上は暗転のままふたりの声だけが聞こえる。やがてふたりは拘束され白い部屋で拷問を受ける。「恨むならアメリカを恨むんだな」「大量のコーラを飲まされた 逆さ吊りにされた、大音量のヘッドフォン」と繰り返される。「耳がイカれた 局部を紐で縛られた もう子供はできないな お前の家族に電話した 日本人は金になる おいおいおいおい 日本はお前を見捨てたぞ」「匂いがした 火炎放射器で焼かれる匂いだ 色んなことを思い出した…」
暗転の中でもうほとんど忘れかけていたオレンジの囚人服、砂漠を背景に跪く二人の日本人の姿を思い出した。このシーンはやはり2015のISILによる日本人拘束事件をベースに書かれている。
義男の父の葬儀には拓次の妻であるライターの昌美もやってきた。義男と拓次のことが報道されて以来、両家族はマスコミに追い回され、周囲からの罵詈雑言を浴び、嫌がらせを受けてきた。それにひたすら耐えてきたのだ。けれど昌美は事件のことを本にしたいと協力を仰ぐ。透も義男の母も最初は波風立てないでほしいと言ったけれど、真実を伝えたいという昌美の思いに賛同する。
ラストシーン、義男は一恵が死ぬ前の最後の誕生日プレゼントだった女物の浴衣を着て透の前に現われる。でも寸足らずだった。女の子としての弟の体のイメージと、実際の義男の寸法はきっと思うより違っていたのだ。そういうちょっとした描写からリアリティを受け取る。義男はこういうところがねーちゃんクオリティやと笑う。
義男はトルコに発つ前、花火大会の夜に透を待っていたけれど透はやってこなかった。透はお前の納棺をさせてほしいと伝えるが、義男は火傷でグジュグジュやから見せたくないと答える。道路に飛び出しては撥ねられた猫の存在がふと響いてくる。それでも透は大丈夫やからと言うと、義男は好きにしたらいいと家の前のベンチに横たわる。最後に口紅を塗ってほしいと透に手渡し、透が義男の顔に触れたところで暗転する。
口紅という象徴的なモチーフが出てくるけれど、演出の中で義男が実際に口紅をさすところは一度も観客に見せなかった。見せないことがよかった。口紅をさすという行為を見せるのは、女性性の成就を強く表象してしまう。義男は自分の性を選び取って自由に生き始める前に、周囲がそれを受け入れる前に命を失ったのだから。
生き辛さを抱える義男を中心に見えてくるのはむしろ周辺の人々のありようだった。家父長制の問題、セクシャルマイノリティーの問題、「普通」らしきものの様態に紛れている澱みや、規範から逸脱するものへの不寛容、非があると見なしたものへの執拗で容赦ない露骨な言動、当事者だけでなく家族や友人にもそれが及ぶこと。さらにどう自分に引きつけて考えればいいか宙に浮いたまま消えつつあった事件の喉に詰まる感覚がよみがえった。観客もただ観客でいられない様々な問題が物語の中に編み込まれている。
劇の言葉は、現実にあっては流れ去っていく事柄を幾度も手に取れる形に鋳直し、生きている私たちの問いとして投げ返されるものであるはずだ。どのような演劇でもそういう声を聞く場をしつらえることが上演であるべきで「鎖骨に天使が眠っている」はストレートな演劇のフォームの中にその意思が貫かれていることがはっきり見える作品だった。