演劇「忘れる日本人」

忘れる日本人

ロームシアター京都で地点の「忘れる日本人」を見た。地点の作品は地点が京都に拠点を移した10年くらい前から何本も見ている。最近は大きな劇場作品より、地点の持っている劇場であるアンダースローで上演される演目をよく見ていた。

当日ロームシアターのロビーで。上演内容とは何の関係もないのだけれど、チケットは整理番号付き自由席で、開演前に劇場ロビーで整理番号順に並ぶようアナウンスがあった。観客は各々チケットを手に「何番ですか」「117です」「あ、すいません、じゃひとつ前です」「もっと後ろやわ」と前に行ったり後ろに行ったり、パズルのように自分の隙間を探して歩く。そして前後の番号の人たちが揃うとささやかな達成感を味わえる。
並んだ観客は列になって階段を降りていく。ロームシアターのノースホールは地下にあり、劇場にたどり着くまでにけっこう階段を降りる。たどり着くと空間の真ん中に木製の船が一隻置かれているのがまず目に入る。地下にある船はここぞというときのために隠されていた脱出用とか、そんなふうに見える。船の周り、俳優が動き回るアクティングエリアは、結界を張り巡らすように紅白のロープで囲われている。ノースホールは常設の舞台と客席がなく、演目ごとに空間の設えを変えられる。リハーサル室としても使える仕様になっているので、今回の客席から見て上手側にあたる壁面はレッスン用の鏡張りになっている。上演のときはもちろん隠すことができるけれど、今回はそれが全開になっていた。
俳優たちは開演前から船が置かれた台座の下の隙間に隠れて寝そべり、既にうごめいている。ふねふね動く手が見える。波のようでもありワカメのようでもある。船の下から男がひとりあらわれる。ハチマキにモンペをはいてボーダーのロンTを重ね着したちぐはぐな格好で、左胸には日の丸のマークが張り付いている。男は喋りながらずっと蟹のように横歩きをしている。体が上下動しないよう足の裏は床から離さず、擦るというかにじるというか、足をハの字、逆ハの字と素早く入れ替えながら滑らかにスライドするように動いている。確かパントマイムにこういう歩行がある。インドネシアの古典舞踊であるジャワ舞踊にもkenser(ケンセル)というよく似た動きがある。うまくやれると自分で動いているというより運ばれているような動きに見えてくる。このあと船の下から他6人の俳優たちもあらわれるが、俳優は全員終始この歩き方だった。船を中心に波間を漂っているようにも見えてくる。俳優たちは胸に張り付いている日の丸のシールを、剥がして船に貼り付けた。全員で船に乗り込む。船に乗る7人。でも七福神ではない。
地点の演劇は、戯曲を書かれた通りに物語として上演するのとは違う方法で演じられる。演じられるというか発語される。言葉は句読点以外の場所で区切られたり、反復されて意味より音の方が際立ってきたり、観客はそういう発語から物語の筋を追うのとは違う仕方で濃縮還元された言葉を受けとる。どういう演劇でも俳優は書かれた言葉を体を通して立体化するものだけれど、地点によって立体化される言葉は、演じられたというより、声と体によって造形されたものという感じがする。そういう上演を重ねてきた地点の俳優には、個々に違う部分もあるけれど共通するフォームが見える。今回中盤に差し掛かって、俳優の口調や立ち振る舞いに日常的な雰囲気が徐々に混ざり、強固なフォームが緩みはじめたところがあった。その前に真ん中に置かれた船を7人で
持ち上げようとするシーンがあった。船の底には神輿のようにかつげるように棒が両サイドから4本づつ渡してあり、全員で持ち上げようとしたけれどうまくいかなかった。どうやら本当に重いらしい。それで持ち上げるための人手を観客席から募るというくだりだった。俳優は虚構度の高い立ち振る舞いをにわかにほころばせ、観客に近い体を作って窓口になる。10人手伝って欲しいと観客に向かって話しかける。最初は観客同士様子見の時間があって、しばらくしてひとり、またひとりと手が上がり、立候補者が舞台上に上がっていく。人数が集まりつつあった頃、ひとりの観客が突然船の上に飛び乗った。近くにいた俳優が降りてくださいと注意しても観客は降りようとしない。スタッフや演出家も走ってきて説得が始まった。観客はなかなか降りない。何かしらの反感による妨害のように見えるけれど、降りようとしない理由はわからない。そのうちにどうにか船から降ろされ、その観客はスタッフに運び出されていった。つまりちょっとしたアクシデントだったのだけれど、もちろんそれで壊れるような劇ではなかったし、出来事として見ていたくらいだった。ただ演劇は人の集まる「場」であるということが否が応でも意識にのぼる時間ではあった。つつがなく進行していたらこの感覚はそこまで浮上しなかったかも知れない。

観客の加勢で船は無事持ち上がった。日の丸のシールが貼り付けられた立派な船がみんなの力で運ばれる。この船は誰が乗るための船なのだろう。運んでいる人は船には乗れない。ノアの箱船、宝船、泥の船、それとも象徴の船だろうか。日本のラベルをつけた無人船。やがて船が降ろされ、観客は席に戻った。今度は船を持ち上げていた神輿の棒だけを俳優たちが担いで歩く。何もない何かを担ぎ続ける、わっしょいわっしょい、それも一生懸命に。祈りや願いとは無関係な空洞の祭りの身振り、わっしょい、ただの行事でもない、空しいばかりでなく、身に覚えのない血の騒いだ痕跡も、記憶のどこか引きずっているのか、わっしょいという掛け声。舞台上で起こることは終始鏡に写っている。あんなふうに舞台上に鏡があることは俳優にとってものすごく気になると思う。実際鏡を見ている暇はないかも知れないけれど、わっしょいを連発する姿の写っている状況が上演と並走している。あの鏡は自分たちのやっていることへの批評的な視線として機能する装置でもあったのではないだろうか。そして輿のない神輿を担ぐその傍で、スーツを着た若い俳優が最初に船を据えていた鉄製の見るからに重そうな台座を、なぜかひとりで持ち上げている。台座を必死で持ち上げる。持ち上げる意味のなさそうなものを全力で持ち上げては移動させゴトンと落として脱力し、また持ち上げては落とし脱力。何かをそうやって頑張っていなくては、活躍しなくてはならないその要請の空洞。矛先を失って意味の満ちなさに満ちた動作の数々、さまざまな事柄におけるコアの忘却と形式をなぞり覚えていることにする、大したことじゃなかったことにする、なかったことかも知れないと思い始める、忘れる日本人。畳み掛けるようにそのタイトルから想起される様々は反射して、同じく日本人である私にも鋭く向かってきた。

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