新刊タイトルのなかで一際目を引いた『〈性〉なる家族』。
そういえば血縁のある家族というのは、脈々と引き続いてきた生殖の、性なるものの賜物、とも言えるけれど、性的な事柄は家族間ではなんとなく積極的に話題にしないことになっている。性的に目覚める年齢に差しかかった子供に、パートナーとの間に発生する様々な事柄について、性欲について、セクシーさのイメージと色気の本来について、普通に話すことができる家庭の方が少ないだろう。性的な事柄は知るべきこと、問われるべきことまで大雑把にモザイクがかかったままになっていることが多い。
『〈性〉なる家族』では臨床心理士である著者のカウンセリング経験などから性虐待、DV、セックスレス、不妊治療、セクハラ、戦争神経症など広範囲に触れながら「家族のなかに置き去りにされたもの」の中を覗き込んでいく。
家族のなかに置き去りにされたものとは何か。子供は物心着くまで基本的に接するのは親であり、世話をされながら人とはどういうものなのかを肌で受け取り、記憶に書き込んでいく。幼少期の親子の関係は圧倒的に親が力を持つが、保護者と被保護者の間柄は時に歪んだ形の力関係としてあらわれる。力のあるものが立場の弱いものに対して、支配的に振る舞うという構図として。
例えば父親の女児への性虐待は、可愛がりの延長で体に触れることが性的な接触に変質し、場合によっては慢性化する。性交に及ばなかったとしてもそれは当然性虐待と呼ばれる。女児にとっては自分が何をされているのか分からない。けれど最も信頼を寄せる人間からの行為であり、父親から秘密と言われる場合もそうでなくても、女児の多くはそのことを黙っているらしい。子供であっても日常とは雰囲気の違う過度な親密さの圧力は、どこか危ういもの直感するのではないだろうか。ちなみに「母親から性行為を迫られた」とカウンセリングセンターにかかってくる電話はほとんどがいたずら電話であるらしい。そしてそのことでカウンセリングに来談した男性はひとりもいないという。
物心がついて行為の意味を理解したとき、親子の関係として愛されていたはずの相手に自分は虐待と呼ばれることをされていたと知る。加害者がいくら可愛がりの延長で、傷付けるつもりでなくやったと言っても、被害者にはまぎれもない性暴力として、人を信頼するための基礎を揺るがし多大な影響を与える記憶になる。殴る蹴るの暴力と異なるのは、痕跡がなく自覚的に説明できるようになるまでに十数年の時間を要すること、また証言への抵抗感と、証言されても証拠がなく、加害者の方が記憶にないと言ってのけたり、歴史的には訴え自体が妄言とされ、むしろ娘の精神状態を疑われるなどして、なかったことにされるパターンが多かった。被害者はそれでも自分は愛されたのではないかという思いと、あれは暴力だったという思いに引き裂かれる。体が傷そのもののように感じられ、汚れたという体感を拭えず、自暴自棄に陥ることもある。
性的に成熟していない子供の体に一方的に触れる、触れさせることは例え泣き叫ぶように抵抗しなかったとしても同意にはなり得ない。しかし同時に同意がないことそのものや、幼い体への欲情が存在すること自体をどうすればいいのだろうと思う。行為となることを規制することは出来ても、惹かれてしまう心そのものは規制できないのではないか。当然、欲望のために誰かを犠牲にしてはならないことは前提として、規制の言葉で抑え込めないものがあるということは認めなければならない。惹かれてしまう自分を、誰も傷つけずに守っていくことは出来ないのだろうか。そういう観点から言うと、フィクショナルな世界で表現されるものまですべて取り締まろうとすることには疑問を感じる。
表立って出てこないものも含め「家族」であるから許される、という幻想の場において力の犠牲になり、抑圧されてきた立場の弱い女性や子供がどれほどいたことか。この本を読みながら飲み込まれた数知れない声の行方を思った。
女性に焦点を当てれば、自分のことより家族のことを優先し、耐え、許し、穏やかでいることが良しとされる良妻賢母のイメージは、変わってきているとはいえ、まだ根強くその女性像への期待と刷り込みが残っているのではないだろうかと世の中を見ながらしばしば感じる。「家族」という枠組みのなかで、妻、夫、子、父、母、など単に役割を担う人物としての距離でしか見られなくなった時、ひとりの個として、感情を持った他者だということを忘れて相手を扱ってしまうことがある。家族やパートナーは自分に従属するのもではないし、子供は親の所有物ではない。当たり前なのに人は時に勘違いを起こす。家族のなかに置き去りにされたものとは、犠牲を黙認する形で維持され、それを容認し、都合の悪いことはないものとして思い込める形骸体質ではないだろうか。
そしてきっと女性だけでなく、男性も男らしさの引き受けによって歪められている。先月起きた川崎殺傷事件のあと、こういった通り魔殺傷事件の犯人がなぜほぼ男性なのだろうと考えていた。近年起こった無差別殺傷事件をいくつか調べながら、背景はそれぞれ異なるとしても、暴力として表出せざるを得なくなる抑圧にはどこか「らしさ」の問題が関わっているのではないかと思った。いわゆる男らしさの像は悲しみや恐怖を露わにしない、力強い、正義、勇敢等の言葉で形容される。そうあろうとすればするほど、悲しみやさみしさ、劣等感を感じても、否定しなくてはならなくなる。生きていれば誰でも味わうに決まっているそれらの感情とは、都度手に取り付き合っていくしかないけれど、男らしさの要請によって、そういう心の時間が剥奪される、ということが起こるのではないだろうか。例えば心が感じている痛みは事実であっても、手段として素直な感情表現も言語化も選べなければ、行き場のない感情を怒りに寄せて暴力の行使に変換してしまう。歪んだ強さや正義として表出する。それはつまり考えなくなるということ。
そもそも物事をつぶさに感じるようできている心に蓋をすることで、痛みや恐怖を感じなくなり、同時に他者の痛みを想像することもなくなって、やがて加害者になれる。兵士を養成する場合などあらゆる洗脳は、こういった鋳型に人をはめ込んで自分で考える隙を与えず不感の状態に矯正していくのだろう。
男性が潜在的に持っている体の力を発揮することで発散される回路があったとしても、力の行使によって評価され、存在が認められる、優位に立ち、他者を従属させることが価値であり快楽であると、体の性質から引き出され、強化されたイメージをそのまま身体化してしまうことは間違っている。女性が備えている受容性につけ込んで、抑圧と忍耐が当然のことのように押し付けられてきたのと同じく間違っている。これがあらゆるジェンダーに関わる問題の根ではないかと思う。
家族の中の問題を見ていくと、社会の中で問題になっていることとそのまま重なる部分がある。押し付けられた「らしさ」によって括られた思考から逃れ、それぞれの言葉を持って考えることから始めなければこの問題は解決しないだろう。