映画「だってしょうがないじゃない」

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坪田義史監督の「だってしょうがないじゃない」を見に京都シネマに行った。3月の中旬。映画館へ向かう途中にある小学校では早咲きの桜が満開で、通りがかる人は見上げて写真を撮っていた。
この映画にも桜は象徴的に登場する。「だってしょうがないじゃない」は広汎性発達障害と軽度の知的障害を抱えながら独居生活を送る監督の叔父であるまことさんの日常を見つめた三年間のドキュメンタリーである。まことさんは数年前に亡くなった母親と暮らした家にひとりで住んでいる。家は昭和の匂いが染み込んだ佇まいで、広い庭がある。庭がやけにきれいに掃き掃除されているのが気になった。庭木も植わっていて、ひときわ立派なのは桜の木。映画の冒頭では枯葉も落ちきった季節で、落ち葉の時期には隣から苦情が来るので掃き掃除をまめにしているが、今はだいぶ楽になったとまことさんは言った。
まことさんは高校卒業後いくつかの職に就いたけれど、父親の死をきっかけに母と暮らすようになり、以後四十年間は母と二人きりでこの家で過ごしていたらしい。その母もある日救急車で運ばれた。母の死後は叔母が公的な手続きをし、生活を支えながら暮らしている。まことさんのところには撮影のために監督が訪れる以外に、叔母、傾聴ボランティア、掃除、買い物を介助するヘルパーなども訪れる。

まことさんは様々なことにこだわりがあるので、すでに習慣化していることを変えるのが難しい。日常動作を見ていると、あらゆることが念入りに行われる。例えば物を置く動作の途中に、置くことをイメージの中でシュミレーションして何度も確認するような、外から見ていると奇妙な間(ま)に感じられるインターバルが入る。
まことさん自身、住み慣れた自宅での生活が叔母や親戚の協力によって可能になっていることもよくわかっているので、叔母から言われることには反論できないと思っている。映画の撮影期間中に叔母の提案で老朽化した家の畳はフローリングに張りかえられ、ベッドが設置された。住環境が変わったことを「本当はどう思ってるの」と監督が聞いても、まことさんはあまりはっきり答えない。
そして庭の桜も伐られることになった。落ち葉問題のもあるし、枝は育ちすぎ電線に干渉しそうになっている。年をとった親戚としては自分たちもいつまで気にかけていられるかわからないし、近隣に迷惑をかける気掛かりはなくしてしまった方がいい、といった事情だろう。けれど四十年間その家に暮らしてきたまことさんは少なくとも四十回、桜の開花を見てきたはずで、切ってしまえば当然元には戻らない。毎年この家に春を誘っていたものが忽然となくなるのだ。
業者がやってきて、躊躇なく上の方から枝を払いはじめる。まことさんは庭で作業を見守りながら、それくらいでいい、ちょっと枝を残しておいてもいいんじゃないかと言うけれど聞き入れられず、ついに幹にもチェーンソーが入れられた。ところが業者が途中でダメだとチェーンソーを置いた。木の中にコンクリートが入っていて刃が立たなかったのだ。木の内部が朽ちて空洞化したところにウレタンやコンクリートを充填する木の治療法がある。この桜はやはり大切にされてきたのではないか。長年そこに根付いたものは簡単には切れなかった、というのは、この映画の中で静かに雄弁な出来事のひとつだった。
庭には乱雑な切断面の桜が残された。まことさんは自分の家じゃないようだと窓から外を眺めてつぶやいた。しばらく後に木の表面をきのこが覆った。

思うように自分ですべてを決められない。まことさんの生活を守ることは管理という言葉と癒着している。本人の意向を全く無視してがんじがらめにするのは正しくないけれど、燃えるの見たさに玄関先でマッチを何本も擦ってしまうのをダメとわかっていながらやってしまうことを放ってもおけない。まるでどちらの方向からも「だってしょうがないじゃない」という声が聞こえるようだった。

ドキュメンタリーと言っても映画は映画であるから、撮る方は何事かを撮ろうとし、そうすると対象に能動的に働きかけはじめる。映画の後半で監督はまことさんとプロ野球観戦、カラオケ、夏祭りなどに出掛ける。それらはまことさんがひとりではなかなか出来ないことで、もちろんそれらを楽しんでいる様子だった。ただ純粋にこの人物を追いたいという初動の先には創意も介在し、この映画からはまことさんの日常だけでなく、徐々に撮る側の欲望も見えてくる。
視線はまことさんに踏み込んでくると同時に、演出のようにもふるまいはじめ、撮られる方もカメラを向けられる異常事態に慣れていく。あらゆる状況を受け入れながら生きているまことさんは、無防備にある意味完全な被写体になれてしまう。その関係性には際どいものも含まれているように感じられた。
監督は撮影が終わってもまことさんに会いに行くと書いている。この映画を暴力的だとは思わない。けれど撮る/撮られるの関係において発生してしまうパワーバランスについては、映画を見ながら考えるところがあった。

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