咲き尽くしたあじさいを見送った。あじさいには花らしい芳香はないけれど、水っぽいにおいがする。それに似たもっと強いものは田んぼや山沿いの川などに漂っていることがある。水っぽいにおいはオゾン臭と呼ばれ、その成分を取り出した合成香料は水や青いイメージの香水を作るときに調合される。香料を単体で嗅いでも生っぽい埃のような、いわゆるいいにおいではないけれど、うまく調香すると香りに風景的な広がりや新鮮さをもたらす。
あじさいの学名はハイドランジア、水の器という意味で、鉢で育てていると土の乾きが他の植物より断然早く、とても水をほしがるのでその名が付いたことに納得がいく。あじさいが終わったということはもう梅雨が明ける。
生まれてからずっと、33年間京都に住んでいる。夏は祇園祭の鉾が動いたら始まり、8月16日に四方の山が燃えるのと共に終わる。鎮火する夏を見送ると次いでお尻に火がつく心境に駆られるのは、宿題に手をつけないとそろそろまずい、という感覚が今でもよみがえってくるからだ。
夏のことを思いめぐらすと水のにおいがそばにある。
日差しに焼かれたアスファルトをなだめる夕立の、熱を含んだ雨におい。
水泳の授業のあと太陽の下で水に浸かった体はどうしたって弛んでいて、今思ってみてもそのあと勉学に励めという方に無理があった。あらがえないものに従って腕をまくらに伏せていたので、肌や髪に残った塩素のにおいをよく嗅いだ覚えがある。
水のなかでジュッという花火、翌朝の青いバケツの火薬の水。
山に囲まれた盆地は海の気配から隔たっているせいもあって、車で海に向かう道で視界に水平線がひらけてくると、非日常の風景の広がりに後部座席で叫んで跳ねた。あの水の中にはクジラやマンボウやリュウグウノツカイ等も浸かっていて、全然足の届かない光も届かない底のところまで、境目のない同じ水で満たされ、反対側の国にもつながっている。潮の空気を吸い込んで圧倒的な水量を前に波打ち際に立つ足は、砂に埋まっていく割り箸くらい些細な2本に思われた。
夜の鴨川は昼の熱波に蒸された草いきれの夜風と暗い水音。長年京都に住んでいる人ならきっと、夏の夜の鴨川に言葉にしない思い出のひとつやふたつ、浮かんでいる。