近所の古いお屋敷の解体が始まった。立派な母屋と離れと蔵と庭が悠々あるくらいの敷地で、ある日庭木が伐採された。大きな梅も椿も突然枝葉をはらわれて、切り口が唖然として赤い。母屋の屋根瓦が下ろされ外壁が剥がされるとそれまで内側だった家の中があらわになった。壁に取り付けられた緑色の扇風機が見える。解体中に砂埃が立たないようホースで水を撒いている。前を通ると湿った土壁のにおいがした。実家が雨漏りして土壁が濡れたときそれと同じにおいがしていたのを覚えている。濡れた土壁のにおいは陽の下の生き物のいる温い土とは違い、ひんやりと沈んでいて、どこか後ろめたいものを含んでいる。
植物から抽出される精油のなかに土のにおいを持つものがある。パチュリーとベチバーという精油がそうで、そのふたつは土を思わせるという点で似ているけれど、パチュリーにはやや日向臭い懐かしさがあり、ベチバーには苦味と墨汁を思わせるような暗さがある。パチュリーは葉、ベチバーは根からそれぞれ抽出される。濡れた土壁のにおいは、パチュリーをつけた試香紙を嗅ぎながら、ベチバーの試香紙を後ろから少しずつ近づけたとき、ある地点で近いにおいが再現される。
子供の頃、豪雨になると土壁に雨染のでる普段は使われない座敷にぼーっと立ってこのにおいを嗅いでいた。いわゆる良いにおいではないのになぜ惹かれるのか、何を嗅ぎ取っているのか自分でもよくわからなかったけれど、後ろめたいものが鼻から入って後頭部の奥に残った。
その名付け方のわからなかったものを言葉にしようとすると、濡れた土壁の臭いには、仄暗く奥まった官能性がひそんでいる、という言い方になる。土は砕けた鉱物や朽ちた動植物が境界を放って混ざり合ったそれ自体官能的な様態であるし、なぜなのかパチュリーとベチバーの精油の効能には催淫作用があげられる。子供の鼻は自分の体が呼ばれるのにまだ居所の知れない感覚の気配を嗅ぎつけていたのかも知れない。
お屋敷の解体は日に日に進んで、最後に石垣だったものが一個一個の石に戻され、運び出されていった。更地の乾いた砂の上には分譲中という看板が立っている。