身近に猫好きの人が多いので、世の人は皆猫好きと思いがちだけれど、夥しいペットボトルを玄関先に並べている家も少なくないので、人類が皆猫を好きではないことは知っている。
うちには2匹いる。ふと居間を四ツ足のものが歩いているのを見ると、全然違う種族の動物と同じ家で暮らしているなあと思う。
猫は特に洗ったりしていないのに獣のにおいがしない。オスだとなわばりを主張するために柱にスプレーすることがあるけれど、それは猫の体のにおいとは違う。猫の体からどういうにおいがするかというと住んでいる所の、家のにおいがしている。
陽の入る窓の布団の上で寝た後は干した布団のにおいがし、真冬の冷えきった押入から出てきたときはウールのコートのにおいになっている。留守にするとき実家に預けた猫を連れ帰るとすっかり実家のにおいになっていて、脱走して数日後に帰ってきたときは土埃のにおいが数日取れなかった。猫はそうやって自分のいる環境に擬体するようににおいを体に移している。そう思って猫を見ると、毎日怠らない毛繕いは自分から発せられるにおいを積極的に消して場所に体を浸透させるための行為にも見えてくる。
猫の体の認識は実際の猫の形よりも広い、というか私たちが自分を差してこの体というのは違う感覚で、猫には体と場所の境界がもっと滲んで地続きになっているのではないかと思う。犬は人に猫は家につくというけれど、確かに猫には我や誰よりも「ここ」であることが重要なのだろう。
猫にとって口内炎は命に関わる病気で、以前拾ってきた猫はその末期だった。飲んだり食べたり出来なくなるので必然的に弱っていく。痛み止めが切れるとずっと下駄箱の隅に隠れていた。猫は「口の中が痛い」のではなくて、「その場所にいることによって痛んでいる、痛みが来る」と捉えるそうで、痛みから身を隠そうとして隠れているのだと獣医さんから聞いた。死に際に姿を消すというけれどそれも、ここはもう自分の体の居場所ではない、という具体的な表れなのかも知れない。
だから猫は居心地良い場所を見つけることにかけては天才的で、季節や時間帯に応じて家の中に過ごしやすい場所を熟知している。微妙な所に寝そべっていると思って同じ高さに伏せてみたら気持ちのいい風が通っていった。
毎日居心地の良さに全力を注いで生きている。そんなふうに生きているものに顔をうずめると、いろんな力を使って身を立てることを常態化している人は力が抜けて眠くなる。猫はそういうことを教えてくれるニャンコ先生でもある。