メダカの食欲

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去年睡蓮鉢に植えたヒメスイレンは秋に枯れ、冬は厚く凍った水の中で生きているのか死んでいるのかわからなかったけれど、春になって葉が水面まで伸びてきた。同時に水中をせわしなく動きまわるボウフラも出てきた、と思ったら日に日に増えてちょっとしたおぞましい量に達した。4月でこのおぞましさなのに夏はどうなるのか。今のボウフラがすべて蚊になってさらにボウフラが増えることを想像すると、まだ噛まれていない膝下全域がすでにかゆい。

ある日、百貨店の屋上のペット売り場に魚類がいるのに気が付いた。睡蓮鉢のボウフラ対策にメダカを飼うのがいいらしいと去年も悩んだけれど、売っているところがなかなか見つからなかった。これはついにタイミングが来たのだと思って150円のヒメダカを4匹買ってきた。メダカは空気がパンパンのビニール袋に入って百貨店のエスカレーターを下ってうちにやって来た。

水温を合わせるためしばらく袋のまま睡蓮鉢に浸け、1時間ほどした頃に放流した。一緒に買ったマツモを浮かせると睡蓮鉢がいい雰囲気になる。突如見知らぬ世界に放たれたメダカは瞬発力をみなぎらせた線的な泳ぎで水中を突っ切る。その様子ボウフラたちはパニックに陥り、一斉に水面に逃げて無数の茶柱のように縦に浮きはじめた。これはなんの真似だろう。

メダカは徐々に落ち着いて偵察をはじめ、泳ぎながら鼻先にあらわれたボウフラを吸い込んだ。4匹のうち2匹の体格の小さいメダカは大きめのボウフラを口に入れて飲み込めず吐いたりまた飲んだりしている。4匹はさっそく手当たり次第にボウフラを食べはじめた。生き餌の味に興奮するメダカと、天敵のいなかった楽園生活に終わりがきたのだというボウフラの絶望感が水面に漂っていた。

とはいっても全部食べきるにはかなり時間がかかるだろうと思っていた。

ところがそれからわずか3日のうちにボウフラは完全に姿を消したのだった。ほんとうにこの小さな4匹が全部食べたのだろうか。もしかするとボウフラの方に知恵がつき、底の赤玉土にもぐっているのではと割り箸でかき回してみたが出てこない。やはりメダカが全部食べたらしい。それ以来メダカは小さくてかわいい淡水魚というより頼もしいそれなりの肉食魚に見える。

これを書き終えたすぐあとに様子を見に行ったら1匹鉢から少し離れたところで干からび、じゃこのようになって死んでいた。辛い。

シャッター音の周辺

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荒木経惟の写真モデルをしていたKaoRiさんという女性が、アラーキーとの仕事に関して黙していたことをブログで公表した。彼女は16年間ミューズのように度々登場し、写真集で見かけた切れ長な目が印象に残っている。
これまで彼女が主な被写体となった写真集やDVDの出版に関して事前の相談もなく、名前やイメージが勝手に使用されて一人歩きする状態だったという。さらに虚実入り交じったアラーキーの言動に誘発されるふたりの関係への憶測や誤解のなか私生活に支障を来たし、環境の改善を訴えてもまともに対応されない扱いを受けたことへの告発だった。彼女には報酬の交渉や仕事内容を選択する余地のないまま、名の通ったアーティストのふるまいにモデルは逆らえず、都合良く扱われるままだった経緯が冷静な目をもって書かれている。
一方的で不均衡な関係性のままモデルからイメージのみを搾取し、普通に日常を生きなければならない彼女はないがしろにされていた。さらに撮られた姿が不特定多数の目に晒されるという仕事に対する撮影者側のセンシティブさは欠落し、モデルは言われるがままなんでもやって当然のような麻痺状態にあった。そこに彼女を逸材と認める目があったとしても、クリエイションに関わるモデルへのまっとうな意味でのリスペクトではないし、思うがままに扱われる主従関係が成り立ってしまっていた。KaoRiさんの告発する内容に関してアラーキーを擁護する余地はない。

KaoRiさんの告発を受けて巻き起こった反応のなかには、アラーキーの写真は最低であるとかただのエロじじいとか、前から好きではなかったがやはりと批判するものが目につく。1999年に書かれた浅田彰の草間弥生とアラーキーを比較した批評「草間弥生の勝利」が引き合いに出され、草間弥生は本ものであり強者であり、対してアラーキーは「センチメンタルな物語にすがることでしか生きられないひ弱な」弱者のありかたであるという批判に同意するといった意見を見る。けれどこの批評を今回の一件で初めて読み、あまりに大掴みではないかと感じた。どういう状況であっても作品を生み出すエネルギーの質の違いを強弱、勝ち負けのような硬化した大雑把な言葉で表現されることに私は疑いを持つ。センチメンタリズムを単にひ弱と切って捨てるのは、まるでゆらぎや中間色を奪って世界を無味無臭に脱色するかのように思える。目に見える明瞭さや強度だけでは届かない場所が人間には必ずあり、そういう部分に浸透するものを人は必要とする。それは弱いからではない。
こういうときに淀みなく言い切られた批評の言葉が加勢として使われるのは感情として理解できるけれど賛同できないので、もう少し批判すべき点と作品のことは分けて考えたい。KaoRiさんの告発に関してアラーキーを擁護する余地はない。これはまず写真家とモデルの力関係の不均衡、契約、モラルの問題で、言うまでもなく改善されるべきことである。

写真に関して言うなら、アラーキーは単にセンチメンタリズムにすがった作家ではないと私は思っている。騒ぎに乗じてアラーキーを批判している人の中には、注目されやすい緊縛や過激なヌード写真しか知らないまま『東京は、秋』や『東京人生』の風景写真などをきちんと見ていない人も多いのではないか。写真として純粋に惹かれるものがこれらの写真集にはたくさんある。
そして良くも悪くも感傷に分け入って主体でありながら客体としてそれを切り取ったうえで物語化し、またそこに同期する能力を持っている写真家であると思う。おもちゃの恐竜なんかを並べて撮ったとりつくしまのない写真群からも、妻を亡くした喪失のあとに残された時間の膨大な余剰として見てしまう。けれどこれは私的なものと写真が重なった結果、物語の中でなんでもありになっているがゆえに見るに耐えられるところがある。ただ純粋に写真を見ているのとは違う軸によって支えられている。そういう物語のなかに身を置くこと、演じることがうまい。ずるいとも思う。

私は若い頃、妻である陽子さんとの日々を撮った『センチメンタルな旅』に心を動かされた。妻を撮ることに対して日常を撮られ作品の犠牲にされたという批判も騒動のなかで目にした。そういう人は陽子さんのエッセイ『愛情生活』を読んでみると単に犠牲というのともまた違うことを感じるのではないかと思う。日常、プライベートを撮られること、例えばそれがセックスの最中だったとしても、その写真が人の目に晒される可能性をもってしまうとしても撮られることは彼女にとって一種の快楽であったことが綴られている。陽子さんというひとは〈俺の言うことを聞いてたら間違いないから〉という傲慢さで誰とでも付き合う傍若無人な写真家の夫を「この言葉の裏に、テレを含んだ男のロマンチシズムを感じてしまう。」と受けとめていた。「女としての魅力が私にあるとしたら、夫のマナザシや言葉によって作られているのではないかと、つくづく思う。」「近頃、私は自分が女であるという事を、前にも増して意識しようとしている。それは、私にとって気分がいい事だから。」この言葉に対して嫌悪に近いものを抱く人もいるかも知れない。けれど常識や規範に沿って型にはめこまれて女になっていくのとは違うことと思え、エッセイを読むとマナザシによってすすんで女になっていく陽子さんはむしろ女としてとても解放され、楽しんでいるように見えた。そこには犠牲にされたという言葉だけでは括れないものがある。アラーキーが陽子さんを利用していたというならば、陽子さんもまたアラーキーのマナザシを利用していた。このカタカナ表記のマナザシは眼差しではなくカメラごしのそれだろう。
『センチメンタルな旅』を初めて見た20代前半の私はこの写真集に編まれた時間、重ねられた日々と死による別離、亡きあとの余剰を見て、今より人生にずっと刹那的な感覚の強かった当時、それよりも続きのある物語の内容を、感情を知りたいと、それを人生において演じることにあこがれたのだと思う。
アラーキーの写真家としての仕事に良きものを見た記憶をもっていた者としては、今後この写真家がまちがいなく改めるべきことのあるなかで、もう一度その写真のことを丁寧に考えてみる必要があった。

花迷彩

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迷彩にまぎれて咲く花の 奥まったにおいにくすぐられ 手元が狂って 泡立てすぎた生クリームは 帰り道を見失い 分離したきり戻らない 滑らかさの喪中 息が切れて 足が笑う そんなふうに 笑ってよ 余剰油分を皮下注入 やわらかな肉質 霜降れば カムフラージュ肌ざわり 肌理に紛れて 見つからない あなたはどこにいるの

4月素描

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ストーブを仕舞おうとしたらスチームの給水口から冬の水が出た。

ごろごろ特売ブロッコリーもよくよく見れば咲く予定の密集で、店先の箱に折り重なりながら陽気でじんわりつぼみをゆるめる。たとえ黄色くほころんでも見頃をむかえず見切りとなる運命であろうが、ブロッコリーは野菜である前に植物であるから咲くのが道理で、春はそういう動きを目に見えてもたらす。玉ねぎも根をはやし球根に戻りつつ、じゃがいもは芽を動かす。

3月のうちに桜は満開の爛漫で日中は連日20度を超えているから花保ちも期待できそうにない。今年の新入生は蕊桜の花道を歩くことになるのだろう。桜をみるとき、目の前で咲いている様子を眺めてああ今年もと思うとき、咲き姿に重ねて去年やそれより前の桜を思い出す。同じ木でなくても去年はどこで見たなとか、記憶のなかの花の風景もそのとき返り咲いている。そういう外と内の花見がある。桜は循環する時間と後戻りしない時間の重なりに立っていることをふちどる。

花粉の飛散が落ち着くまで布団を干すのは控えようと思っていたけれど、日向に体をひろげて白いおなかを輝かせる猫を見ていると、この惜しみない春に布団をさらさないのはいよいよ愚かに思え、鼻炎の方をあきらめて干した。春は鼻の奥で血のにおいがしている。

眠い。

河川敷を歩いてカラスノエンドウの若い芽を摘んだ。あの小さい豆はあまりおいしくないけれど、花芽はおひたしにできるくらい癖もなくやわらかく食べやすい。大体のひとが花を見るのに上を向いているところひとり地を這っていると知らない子どもが関心を寄せて寄ってくる。カラスノエンドウはもう少し温かくなるとアブラムシがたかるので食べるなら今が旬。その傍ではスギナも育ちつつありスギナの中につくしは点々と、おかずになるほど生えてはいなかった。カラスノエンドウは漢字だと烏野豌豆と書く。漢字だとどこの空き地にも生える雑草から立派な春の野草の印象になる。洗って茹でてパスタにあわせた。ベーコンのピンクと春野の濃い緑、野趣あふれる烏野豌豆ペペロンチーノ。

マイクロ家族

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ぬか床を育てて半年くらいになる。
米屋でもらってきた米ぬかと塩を混ぜるところから始め、発酵を促すために野菜の切れ端などを入れる捨て漬けをくりかえし、乳酸菌を増やしながら育ててきた。徐々に発酵臭がするようになって、見えないものが着実に息づいているのを感じるようになる。最初の3ヶ月くらいは発酵の状態が不安定で、ふたを開ける度にシンナー臭が鼻に刺さる反抗的な時期もあった。漬ける野菜もことごとくシンナー風味になって食べられない。ダメ、セッタイと、唐辛子や塩を加え発酵を抑える工夫をしたけれどなかなか止まなかった。そこで老舗のぬか漬けを買ってきて、その周りについたぬかを加え、若いぬか床の指南をあおいだ。しばらくして若いぬかは先達から学びを得たのか、気がつくとシンナー臭は収まっていた。ちょうど気温が下がって発酵が落ちつく頃でもあった。
冬場、台所の気温は冷蔵庫並みだったので、野菜が漬かるのも時間がかかったけれど、気温がゆるむにつれて今度は早くなる。野菜によって程よい酸味が入る漬け時間もなんとなくわかってきた。寒い時期はもっぱら大根、人参、時々かぶ、小松菜、キャベツ。大根は数日干してから入れると沢庵に近い食感になる。キャベツの芯にはラブレ菌というぬか床と相性のいい菌がいると同じくぬか床を持つ友人から教わり、それ以来キャベツの芯はただの生ゴミではない力を秘めたものに見える。
はじめる前は毎日かき混ぜなければならない手間や、漬け物に無関心な子供の頃、実家の台所の裏にあったぬか床のにおいはただただ異臭と感じられので、続けられるかどうかと思っていた。いざやってみると1日1回かき混ぜるだけで、あとは野菜を入れておきさえすれば勝手に調理してくれるようなものなのでむしろ助かる。しかも栄養価を損なわずむしろ高めて返してくれる。ぬか床に混在する菌の加減で違った味わいになるので、その家の味になるところもおもしろく、見えないけれど生きものの働きを実感できる。自然と愛着もわいてくるし、やってみるとまったく面倒なことではないのだった。ぬか床の中で何が起こっているのか詳細にはわからないけれど、とにかく夜漬けたきゅうりが朝にはちゃんと漬けものになっている。謎の工程を含む見えないものの作用にまかせてしまうこの手抜きは、大変いい手抜きだと思う。

沼好物

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沼好物というのは、沼地に足を取られるかのごとくはまり込んでしまう好物のことで、3分ほど前にみたらしだんごを食べながら思いついた造語である。
私の沼好物はみたらしだんごで、なかでも特に沼化しているものとしてヤマザキの3本入りみたらしだんごが挙げられる。これが沼となっている理由はまず100円で買えること、食べたいと思ったら近所のスーパーまたはセブンイレブンで容易に見つかること、餡の濃度が濃いので垂れて服を汚す心配もなく、容器に残った餡を最後までスプーンですくって食べようとする意地汚さを発揮せずに済むくらい餡とだんごが一体化していること、などが挙げられる。
もっと美味しいみたらしだんごというのも世の中にはたくさんあるはずで、試しにみたらしだんごで検索してみた。発祥とされているのは京都の下鴨神社の傍にある店で、夏に御手洗祭という川に足を浸す神事があるけれど、境内の御手洗池の水の泡を模して作られたという詩的なおいたちだった。小さい頃お土産にもらって食べたおぼろげな記憶はある。
祇園に夜だけやっている「みよしや」というみたらしだんご専門店がある。夜にその前を通ると大概行列ができていて、炭で餅を焼くにおいが通りすがりの人々の足を止め、うっかり並ばせる。並ぶのがきらいなのでいつも端から見ているだけだったけれど、一度列が長くなる前を狙って買いに行ったことがあった。ヤマザキと大きく違う点はなにより工場でなくその場で焼いているので温かいこと、それに夜数時間だけしか営業しない上に毎日行列のできるだんごやのだんごであるという付加価値、そしてきなこがかかっていること。買ったらすぐさま食べたくなって歩きながら包みをあけた。しかしあけてから食べ歩くのに向かないくらい餡がゆるいことがわかり、人混みの四条通で食べるには不向きだった。だんごには適度な弾力と炭火の香ばしさがあり、もち米の風味もしっかりしている。ただみたらしだんごに求めるのは、餡とだんごであるので、きなこの存在が私には余計に感じられた。
ヤマザキのみたらしは量産されすぎているし、あまりに手軽でありがたみもなく餡の味も濃いけれど、それゆえ人を引きずり込む沼的要素を備えているとも言える。最近俳句を始めたのでここで一句詠んでみたい。
ヤマザキのみたらしだんご春の沼

なのはな

nanohana
ゆらりゆらるる
なのはなのはな
なをなのる
なのはながゆれる
なをなのる
なのはながゆれる
わたしわたしと
ひとこともいわず
なをなのる
なのはながゆれる

こぼれるきいろ
じゅふんうらなう
あぶらなあぶら
あぶらなあぶら
おしべろっぽん
めしべちゅうとう
がくかべん

なのはなちるちる
そのはなのなは
ゆらりゆらるる
なのることなく
ゆらりちるちる
さようなのはな
なをなのる
なのはながゆれる
なをなのる
なのはながゆれる

3月素描

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何かの拍子に体質が改善されて今年こそ、と期待してみるけれど、気温が上がるや花粉の飛散を感知する。

読んでいた小説に、妻に先立たれた男の独り身について、それは孤独ではなく寂寥であると書いていた。亡妻のかわりに人生の寂寥がひっそりと私の傍によりそうようになった、孤独は見すてられ、とりのこされていると感じるはげしい感情であるが、寂寥はかつて確実に存在したもの、生きられた記憶である、と。
最近ふと荒木経惟の写真のことを人と話していて、妻の陽子さんとの新婚旅行から死とその後を撮った代表的な写真集「センチメンタルな旅」のことを思い出していた。妻の死を経過した写真家の目によって死後の寂寥とはまだ縁遠い新婚旅行の写真さえ、初々しさとは違う濃淡を帯びて赤い装丁のなかに編みこまれている。平穏な日々も死の直前もまさにそのときもその後もシャッターは切られ続けた。写真家本人が写っていなくても、どこにいても何を見てもあるひとりの死の肩越しの世界にいるひとりの人間が写真から見えてくる。そういう喪失の状態を多かれ少なかれ何かを失った人はみな経験するものだけれど、それをそのままに写してしまう写真家の誠実と力に魅せられた。二十代のはじめにこの写真集を見て、はじめて結婚や夫婦というものはいいかも知れないと思った。なぜいいと思ったのか当時はわからなかったけれど、感傷とは違うその寂寥というものの醸造されるまでの日々に惹かれたのかも知れない。
つれあいはいちばん自分の心身の近くにあってほしいと思う相手であり、結婚するということは、死ぬまでそうであってほしいと願って、それを口にすること、周囲にそう宣言することである。つれあいの死は親や兄弟、友人の死とは何か違うものを残すのではないかと想像した。二十代のころ最初の結婚を決めたとき、失うことの寂寥を知らないまま生きるよりは知りたいと、そうすれば身をまかせるしかない加齢のそばで、別の能動をもって歳を重ねていけると思った。
喪失への欲深さは言うまでもなく失いたくないということに根差し、自分も相手も限りがあるそのうちに意味を求めるよりは、とにかく欲するところをまっとうしようとする生への貪欲と表裏一体になっている。

レイトショーの映画を見に冬物より一段薄手のコートで外に出たらちょっと寒かった。街かどでベーシストがJust the Two of Usを弾いていた。

仙台滞在記

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先週まで東京にいて、続きに宮城に用あって仙台に向かった。新宿から昼のバス。窓側で風景をながめていた。埼玉より上の方には行ったことがない。都市部を遠ざかるにつれて田畑田畑田園。彩度の低い冬模様の風景にかろうじて空が青い。福島のサービスエリアで食べたことのないものを探していたら、ぞうりぱんというのがあった。ぞうりのような平たい生地の周りが黒砂糖でコーティングされた麩菓子とかりんとうの親戚という感じでパンではない。素朴かつ甘い。
5時間くらいで仙台に着く。日陰に雪が残っているけれど、普段住んでいる京都からずいぶん北上したのに思ったより寒くない。仙台駅周辺はここ数年で大型店舗やホテルが一気に建ったらしく、駅前のショッピングモールもまだ新しい。滞在先の最寄り駅まで各停に揺られ、向かいに座る人たちの顔と見慣れない心境で対面しながら車内アナウンスの微妙なイントネーションの違いを聞く。
せっかくなので夜は名物の牛タンを食べに行った。席を待つあいだそういえばなぜ牛タン、名物なのは牛の舌のみなのか気になって調べてみた。検索結果によれば、戦後仙台に駐留していたアメリカ軍が牛肉をよく消費したけれど、舌と尻尾は食べなかった。余ったそれらをどうにかおいしく食べられないかと仙台の焼鳥屋店主が今の牛タン焼きとテールスープを考案し、麦ご飯、とろろ、漬物の定食スタイルで提供したのが始まりだという。そういえば以前、仙台土産に牛タンをもらったとき、肉はアメリカ産とあって不思議に思ったことがあったけれど、仙台の牛タンは産地のブランド牛という訳ではない別の事情と工夫の産物だった。ルーツを知るとやみくもに名物を食べるより感慨深く、牛タンは確かに今まで食べたなかでいちばんおいしかった。

翌日震災遺構の荒浜小学校を見に行った。東北に来ること自体がはじめてなので、震災後の風景も映像でしか見たことがなかった。
市街地から海に近づくほど更地の面積が増えていく。海沿いの道ですれ違うのはほとんどが工事車両で、今もあちこちで重機がはたらいている。高い堤防とひょろひょろ生えている松が見えてくる。ところどころ新しい家が建ってはいるけれど町になる手前の密度で、更地の真ん中に黒い石の集結しているのはよく見ると墓石だった。震災から何年経ったか改めて指をおって数えた。
海の近くにぽつんと残された荒浜小学校の校舎は、2階まで波が押し寄せたそうで、棚のガラスに水跡が残っている。水に浸かった1階の教室の天井板をとめてある釘が点々と錆びている。今は片付けられているけれど、直後の写真には校舎に車が突っ込み、教室には押し流された瓦礫が詰まっていた。生徒や地域の人たちが避難していた屋上にも上がることができる。風をさえぎるもののない屋上に海風が容赦なく、5分とその場にいられないくらい寒い。枯野のなかに墓地と寺社の跡、部分的に自生したのか大人の背丈より高い笹のような植物が群生し、さわさわ音がするのが聞こえる。校舎のそばでは新しい防砂林になる幼い松が育てられている。
被災直後の上空からの映像を見ると、校舎の四方は濁流にのまれ、屋上だけ取り残されたようになっていた。今後の見当もつかなくなった景色を前に気の遠くなる不安と喪失に凍える体には、足を運んでも到底追いつかない。けれど更地になったままの現在の風景から、日常の当たり前らしきことのすべてはまったく当たり前ではないと言われているようだった。いくら整地され整備されようが地面は私たちのものではないし、どんなに高いビルを建てても開発が進んでもその足場は本質的には変わらない。覆い隠されて見えにくくなるものの剥がれた生(き)の風景のように思え、本当はどこにいても意のままにならない場所に住まう生き物であることの謙虚さを、普段ことごとく忘れていることに気付かされた。

山谷滞在記

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仕事で東京にきて南千住のあたりに泊まっていた。初日に宿泊先のシェアハウスに着いたのは夜11時で、まったく土地勘がないし暗いので周囲の風景をよく見ないまま朝になり、食べものを探して外にでた。向かいはモツ専門の肉屋だった。すぐそばにいろは会という商店街のアーケードがあり、山谷は日雇労働者の街、労働者を排除する再開発反対、いう垂れ幕が下がっていて、その辺りに座って談笑するおっちゃんたちがいる様子からここが山谷と呼ばれるところだとわかった。

歩きまわってみると、だいたいどこも一泊2200円、カラーテレビ、冷暖房完備と表に書いた宿がたくさんある。どの宿の前にも自転車がたくさん止まっている。あとはコインロッカー、コインランドリー、銭湯。ひとつ前のコラムに釜ヶ崎で撮られた映画のことを書いたけれど、その映画を見たすぐだったこともあって、映画で見た風景がオーバーラップする。いろは会商店街はシャッターの下りているところが多く、開いているのはグレーや紺の服が主なメンズ洋品店、洗濯洗剤は今も粉が主流の日用品店、朝から開いている大衆酒場からはオリジナルをはるかに超えて情感豊かに歌い上げられる長渕剛の乾杯が漏れ聞こえてくる。あとは青果店、酒屋などがまばらに営業している。創業大正7年とある惣菜屋で緑色の青じそおにぎりを買ったら沢庵がついてきた。食べながら歩く。おにぎりはとても上手に握られていておいしい。通りにダンボールをひっくり返して並べ、その上に発泡スチロールのふたを乗せて野菜やパンを売っていたりする。葉付き大根1本とりんご3つ、バナナひとふさ、ヤマザキの串だんご、2種類の食パンがそれぞれひと袋ずつ据えられていたり、どういう仕入れなのか少量ずつデッサンのモチーフのように陳列されている。品物は青果中心だったり乾物中心だったり日替り。日向に集まったおっちゃんたちがワンカップを並べて午前中からお茶会をしている。商業的な賑わいとは違うけれど、生活がそこに自生している雰囲気があった。

10日ほどこのまちで過ごした。シェアハウスからいちばん近いコインランドリーで洗濯機を回したまま部屋に帰り、終わった頃に戻ってきたら急に混んでいた。中にいたおっちゃんのひとりに待ってる人がいるんだから洗濯物を入れっぱなしにして出るのはだめと怒られ、10分やそこらくらいは普通ですよとかばってくれるおっちゃんもあり。スーパーの特売日は朝からレジに行列ができる。セルフレジの導入が余計混雑を生み、ろれつのまわらない野次がとぶ。片足を引きずっている人をよく見かける。日用品店の店先には大人用紙オムツが並んでいて、すれ違う人の多くは働き盛りを過ぎていた。

シェアハウスの宿泊客は全員外国人だった。共用キッチンに置く食べものには名前シールを貼ってくださいとある。初日に買った5枚切食パンにシールをはらず置いておいたら、次の日の朝ぜんぶなくなっていた。買い直してシールを貼っても同じことが起こったので、食パンは部屋に持ち帰って守ることにした。共用の冷蔵庫には各国の滞在者が残していった捨ててもよさそうな半びらきのどん兵衛なども冷えていて、庫内は発生源不明の合成ミントのような臭いが充満している。おかげで初日に買ったクリームチーズは日ごとミントフレーバーになっていった。