UFOキャッチャーその後

ufoキャッチャー

映画館に行って見たい映画のチケットを買ったあと、上演まで30分くらい微妙に時間が余った。お茶して待つほどでもないし、レイトショーだったので周りの店もほとんどシャッターが降りている。明るいのはシネコンに併設されているゲームセンター。最後にゲーセンに行ったのはいつだったか、最近のゲーセンはどんなものか。よく行ったのはプリクラ全盛期の中学生の頃、偽物に違いないバーバリーやMCMのマフラーがUFOキャッチャーに並んでいた。ふわふわした大きいぬいぐるみ、タワー状に積まれたチョコ菓子、キャラクターグッズ。20年前と景品の雰囲気は変わらない。20年の間にPHSはスマホになって「イマイエニイル?」とか、カタカナ20文字しか送れないため宇宙人から届くようだったメールも動画まで送れるようになったのに、ゲーセンはあまり変わらない。
ふと目にとまったUFOキャッチャーがすぐ捕れそうだった。景品をよく見ると、BIGカツ30枚がプラスチック容器に入っている。それだけ入ると大辞林一冊分くらいの厚みになる。BIGカツを知らない人のために説明すると、魚のすり身を栞くらいに伸ばし、パン粉を付けて揚げたものにソースをかけて個包した駄菓子で、いつからあるのか知らないけれど、私が小学生の頃にはすでにあった。1枚30円くらい。
1プレイ100円で、そのときあった小銭が500円玉。そのまま入れると5プレイできた。景品は2本の棒を渡したところに置かれている。1回目は中心を狙って一瞬全体が浮いたけれど、アームは景品の重量を完全に持ち上げるほど力がないことがわかった。2回目は2本渡されている棒の手前を狙い、斜めにして滑らせて落とす作戦にした。それは功を奏して片側に結構ずれ、3回目もう一度同じところを狙ったら見事BIGカツ30枚は滑り落ちてきた。
しかし捕ったはいいがどうする。
とりあえず映画を見ながら2枚食べたけれど、それでもBIGカツはまだ果てしなくある。そのまま食べる以外の方法を考えてみた。しっかりソースカツの味がするので、カツ丼はいけるに違いない。
手始めにカツサンドにしてみた。玉ねぎを刻んで塩をふり水を切って、レモン汁を少しかける。ゆで卵を作り、それも刻んで玉ねぎに混ぜ、マヨネーズで和えてタルタルソースを作る。BIGカツを3枚焼く。焼けたら4等分に切り、パンにタルタルを塗りカツを挟んで残ったタルタルを上から塗り、パンで挟んで半分に切って完成。それはカツサンドだった。あんなにペラペラなのにカツ感をしっかり演出していた。節約の必要に迫られたとき、あり余るBIGカツがうっかり手に入ってしまったら一度お試しください。

何事もない秋の夜

nanigotomonai
夜、窓を開けたまま寝ていると虫の音が入ってくる。向かいに建っているコンクリート打ちっぱなしのデザイナーズマンションの前に植わっている木の根元から。窓ごしに見えているそのマンションを賃貸情報サイトでさらに覗いてみる。一度住人がオートロックのインターホンごしに郵便局員を怒鳴りつけている声を聞いて以来なんとなく印象が悪い。部屋数20戸、1LDKメゾネットタイプで、玄関ドアは深緑色。玄関を入ると、人ひとり通れるくらいの通路があって、壁面左手のドアを開けるとユニットバス、さらにその奥のドアは台所で、通路の反対側には収納がある。通路の先のリビングは10畳半、床は大理石調のタイル敷きで壁は白。部屋の突き当たりの先にはベランダがあって、突き当たりの壁ほぼ全面使って縦4×横4=16マスの正方形の窓枠が切られていて、その内側の縦3と縦3が両開きのガラス戸になっている。光がたっぷり入って開放感のあるこの部屋いちばんのポイントは窓に違いない。2階というか8畳の広いロフトに上がる階段の手すりや窓枠など金属の部分は深緑色に統一され、階段は壁面に沿ってシンプルに木の板で組まれている。リビングは吹き抜けで天井が高い。家賃は向かいにある我が家の倍だった。礼金に5万円上乗せすればペットの同居も可とある。けれどこのペット可は小型犬のみとか条件が付いている予感がする。物件を探すときにペット可とあっても猫はだめというところが大半だったりする。猫可物件は貸家にせよマンションにせよ相当古いか、猫と暮らせることを売りにしているところに限られる。デザイナーズマンションが猫に寛容な気がしない。
虫の音は強さから想像するに鈴虫より大きくて、単体で鳴いていることはわかるけれど、どういう姿の何虫なのかはわからない。遠くの鈴虫の羽音が寝床の耳に届くくらいなら寝入りばなにもいいけれど、その虫の音はリにジを混ぜたような強い音で、わりと執念深く耳につく質の音なのだった。その音に耳の焦点を合わせてしまうと気になってなかなか寝付かれない。さすがに一晩中鳴きっぱなしではないだろうから何かのタイミングで止むのだろうと思っていると、しばらく鳴いては小休止、また始まって小休止、やはり疲れてくるのか徐々に持久力が落ちてきて、短く雑になってきたなというところで、聞いている方の意識もどこかに飛んでいった。そういう、何事もない秋の夜。

9月素描

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コーヒー豆が切れて迷ったけれど今年最後のアイスコーヒーの豆にした。アイスコーヒーの豆は普通のより煎り方が深いのだろう黒っぽい。昼間はアイスでいいけれど、9月に入るや堰を切ったように朝夕は秋が流れ込んできて、アイスコーヒー豆がなくなる前に普通の豆を買うことになる予感が既にしている。

そうめんは毎年どうしても余る運命にある。もう氷水に麺を浮かせる気にならないので、別の方法で消費しようとする。どんなに気をつけて作ってもそうめんちゃんぷるだけはうまく作れない。麺がごねごねになる。茹ですぎない、麺を冷やしてから使う、麺に油を馴染ませてから使う、などのこうすればごねごねになりませんよというあらゆる方法でやっても毎度ごねごねになる。そうなった場合はもう麺料理として食べるのは諦めて、刻んで小麦粉を混ぜてお好み焼きにように平たくして焼くとか、そうめんちゃんぷるを作ると望まない創作料理が出来上がってしまう。

涼しさを感じるとかぼちゃを煮たくなる。かぼちゃはみりんや醤油を使わず、切ってから塩と砂糖をまぶして少量の水で蒸すように煮るのがいちばんおいしい。

香川に行ってうどんを食べ、写真展に行き、見るということも見逃すということも見えないということも、写真の見せ方より写真そのものから見たいというようなことを思ってまたうどんを食べ、お土産物を眺めているとオリーブオイルやオリーブのスキンケア商品がたくさんあった。オリーブ栽培量日本一は香川らしい。オリーブの花の香水というのを見つけてめずらしいので買ってみた。花を見たことがない。画像検索すると、5〜6月に金木犀に似た小さな白い花が集まって咲くようだった。香水は実際のオリーブの花のにおいとは違っているだろうけど、すずらんに似た清潔感にジャスミンやオレンジフラワーの温かみを足したグリーンフローラルの調香になっている。

久しぶりに海を見ながら自分の育ったところが隣の国から海を隔てた島国であることに気が付いた。島国ではぐくまれたということはどこかものの考え方や受け取り方に影響しているように思う。季節を自らの情緒として内面化していることと切り離せないように。

未定流れ星 予定流れ星

nagareboshi

流れ星まで人工的に流せるようになりつつあるらしい。
そうなるとある程度ねらったタイミングで流れ星を出現させることが可能になるのだろう。これまで人生で数回流れ星を見たときのことを思い返すと、見ようと思って夜空を眺めていた訳ではなくて、何か別のことで夜空を眺めていたら視界にたまたま入ったのだった。
流れ星を見たときの喜びの大半は不意に訪れたというその偶然性が担っている。ねらって流される流れ星というのはどちらかというと流しそうめん、打上げ花火の一種のように思われる。それはそれで楽しいかも知れないけれど、待っていれば来るとわかっているものをベストな位置で待ち受けるよりも、思わぬ場所で不意に訪れたものに偶然出くわすほうがおもしろいに決まっている。
おもしろいものが多い方がいい。じゃあ不意に訪れるもの、偶然にどうすればより多く巡り会えるだろうかと考えた。まずそれをこっちからあまりに求めすぎてはいけない。かといって求めなさすぎてもいけない。偶然を期待するときはただただぼーっと待っているのではだめで、待ち方のコツらしきものがあるように思う。神頼みのような委ね方ではなくて、意識に何かをうっすら蒔いたり仕掛けたりする必要がある。うっすら。収穫や獲物を期待せず、初期衝動のままの静かな引力を帯びている感じで。偶然のための構えと呼ばないような構えがいる。見ようとせずに全体をながめる視野で、弛み過ぎない力の抜き方を維持する芯がいる。背骨は生まれた時からあるけれど、そういう芯として作り替えなければならない。偶然はいつも流れ星みたいに降ってくるように出現する訳ではなく、むしろ見慣れてしまったものの既視感を積極的に解除した目でいつもの通り道を歩きながら見えるものだったりする。ある瞬間何気ない隙間に日が差したときの影の具合や形だったり、向かいで信号待ちをしているたまたま並んだ人たちの立ち位置や服の色だったり、その背景の雲だったり、真横で信号を待っている人たちの会話のなかのひと言だったり、青信号になってすれ違った男の人の柔軟剤のにおいだったりする。私がここで偶然と呼んでいるものは、私に向かって矢印の向いていない、意図の外側にあるもので、そこからいかに受信できるかということだと今書きながら気が付いた。
出来るだけ多くの偶然に出くわすためには、知覚をゆるく広げて、あとは放っておいたら、向こうの方からやってくる。そういう穴のようなものに、なれないけれど憧れる。

♯通低音とアルフォート

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生まれたときの心臓はピンポン球くらいの大きさで、背が伸び尽くして以降そのサイズはだいたい握りこぶしくらいになるという。ためしに手をグーにして、それくらいのものが肋骨の奥にあるのだと積極的にイメージしてみる。心臓というのが全身に血を行き渡らせるポンプの役割をしていて、たえず収縮運動をしているから音がするというのをもし知らなかったら、この鳴り止まない通低音をなんだと思うだろう。止まれと意思を送っても止めることができない。勝手に動いている。ずっと当然のことのようにリズムを刻む身の勝手で、これを書いている今もたぶん読まれている今も、動いていることがいちいち意識にのぼってこないほど滞りなく、おかげでそれとは別のリズムに乗ったり、動きや線や文字からリズムを生み出すことができている。この通低音が当たり前のようにあることの当たり前でなさを、あるピンポン球くらいの心臓の人から教えられた。その人にとってそれはこれから命がけで手に入れなければならないものだった。
生まれて以来止まったことがなく止まるということをまだ知らない。そういうものに動かされながら、ある日は何本もペン先を潰し、ある日は指先を非日常の方向に反らせ、ある日は電車にゆられて仕事に出かける。仕事先ではチョコ菓子をもらうこともある。箱に入った普通のアルフォートはしかし、30度を超える気温のなか持ち歩くと袋のなかで溶けていることが開けずともわかる。かばんの中で沈没しかかっているアルフォートのせいで帰宅を急かされ、とにかく冷蔵庫に放り込んで、冷えた頃に取り出して封を切る。中からは12個すべてが溶解し、一枚岩となった塊が引き出された。ほとんどの船は見る影もなくチョコの海に沈み、端の方にかろうじて2隻ほどマストの面影を残すばかりだった。割りながら食べて胃袋に埋葬する。沈没アルフォートに限らず、あらゆるものを埋葬するように口に運ぶことにすると体の捉え方は変わるだろうか。墓穴としての体は穴でありながら凸としてあらわれる墓標を兼ね、いちいち戒名などを記さなくてもこの形状には何かしらが反映される。生きることと供養が同期して脈打つ。生きていることに謙虚であるには死の陰影を必要とする、そんなことを考えているうちに五山の送り火も燃え尽きて、私に至るまでの無数のご先祖さま方も帰っていったと思うと、なんとなく空気中の人口密度がガランとしたようだった。

♯ニューバランスとペットボトル

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例えばあのときアディダスじゃなくて、ニューバランスのスニーカーを選んでいたら、足の裏はまたこことは別の地面に接触していたかも知れなくて。いつものように路地から路地へもぐりこんで、年月の経つうちに育ちすぎ種がとび、できあがったその家独自の軒先生態系および、はがれた張り紙、錆びたトタン、すすけたレースのカーテン等に親しみを感じるのではない新たな足取りで、ニューバランスの新しい均衡を得ればもっと、別のものが見える視力も自ずと組織されるはずで。それどころか最近では、これはサンダルですか、スリッパですかと問えば、十中八九スリッパに分類されることうけ合いの近所のスーパーで購入した580円のゴム製のはきものを履き、電車に乗って隣の県まで赴いてしまう。いい靴を履いていればいい場所に連れて行ってくれる、と書いてあるマンガを昔読んだことがあって、それは今もわりと信じているけれど、時々信じていることと逆のことを差し挟んで反射光を浴びることにしている。一方向だけの信心では光の当たらないところにムラができるからだ。間違いないことはいかなるスニーカーであっても、真夏に足の全面を密封するようなはきものを履くことは、全然気が進まない。
炎天下の軒先に並ぶペットボトルの中の水は蒸発も循環もゆるされないまま整列を続けている。透明なペットボトルを直射日光が突き刺さり突き刺さるなか、身動きの取れない水はおそらくとっくに発狂水で、そもそもの目的であったはずの忌避すべき野良の猫さえ平然とその傍を通り過ぎているだけだというのに。未だ整列を続けているあれは一体苔のむすまでそうやって並び続けるつもりなのか。エアコンのホースから水が滴った。それも逃げ水と呼ぼう。
あのペットボトルの水のことを考えるたび、私の体のどこかが煮えてくる。これは体内の水が同胞たる水に反応しているからに違いない。あの水を私の水は逃がしてやりたい。あの水をここからできるだけ遠く離れた、それなりに雄大な滝つぼなどから、とめどない湧水の流れに身を任せ我を忘れて滔々と、あの無意味さから放ってやりたい。

8月素描

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朝干した洗濯物が昼過ぎにはもう乾いている。

コンビニで売っているガリガリくんを炎天下で歩きながら食べると、後半に差し掛かったあたりで必ず端っこが溶けてきて、溶けた汁がちょうどサンダルの指のあいだに落ちて足がペトペトする確率がかなり高い。つまりコンビニで売っているガリガリくんはちょっと大きすぎる。その点スーパーで売っている箱入りのガリガリくんはとてもちょうどいい。まだ食べたいくらいでなくなるところもちょうどいい。

ポット型浄水器が示すカートリッジ交換時期を無視して使っている。1日に2.5ℓ使用で2ヶ月とあるけれど、1日に2.5ℓ使っていない自信があるので、換え時な気がしたら換えている。ためしに新しいカートリッジと交換前のと水道水の3種類を飲み比べてみた。新しいのはほとんどカルキ臭がしないし、口当たりも少しまろやかで、交換前の水は水道水の印象にやや傾き、けれど比較して飲んだときにいちばんおいしいと感じたのは水道水だった。
夏の校庭を散々走り回って、喉がカラカラになったあと、校舎の横にある水場で蛇口を上に向けてひねり、最初の方はぬるいからしばらく流して、冷たいのが出てきたら顔を近づけて吸い付くように水道水を飲んだ。乾ききった喉に勢いよく流れ込んでくる水が体の隅々まで満ちていく。その水道水には家の冷蔵庫のお茶にも自販機のアクエリアスにもない、純粋に水によって渇きをうるおす原始的な快の感覚があった。鼻から抜けるカルキのにおいはその記憶とセットになっていて、結果水道水がおいしいと感じるらしかった。

たまった楽天ポイントで敷き布団の冷感敷きパッドというのを買った。ひんやりは体を横たえた最初だけ。

盆踊り大会を覗いた。神社の中央にやぐら、いろんな色の提灯が吊り下げられ、地域の人がかき氷やわたがしの屋台を出している。年に一度くらいしかやらないのによく振付けを覚えているなというくらい新旧の盆踊り曲が次々かかる。町内の人が集まっている雰囲気で、規模はそれほど大きくない。そのなかにひときわ踊りの上手い紺色の浴衣の女性がいた。差す手引く手、足の運び、拍子の取り方、熟練度が明らかにまわりと違っていて、どの曲の振りも完璧に入っている。腰から水風船をひとつぶら下げているのも心得ている感じがする。聞くところによるとその人はいろんなところの盆踊りに参加しては踊っている人らしかった。何よりよかったのは、その人の後ろについて踊っていた小学生の女の子ふたりは彼女を真似しながら踊りのキモを見習ったようで、踊りがどんどんよくなっていたことだった。盆踊りの輪の中にあんなふうに踊りたいと思わせてくれる人がひとりでもいたならば、盆踊りという行事は変わっていただろうと、出会い損ねた私は思う。

桃源郷

togenkyo

朝。日の出と共に徐々に室温が上がって、あぶり出されるように暑さで目が覚める。前の晩によほど食べ過ぎたのでなければ、起きると同時にお腹が空いている。とりあえず水を飲む。
朝いちばんに果物が喉を通っていくイメージが前の晩からあったので、冷蔵庫には夜のうちに皮を剥いた桃がすでに用意されている。ラップを取ると桃は変色している。それは知っている。よく冷えた桃がイメージ通りに喉を通りすぎて胃に落ちる。

桃の皮はいつも指で地道にぺりぺりめくりながら実を爪で掘って穴を開けて悲しくなるか、包丁をどんなに皮と実のあいだに注意深く滑らせても実をこそげるので悔しい気持ちになっていた。
ずるっと脱がせるように皮が剥ける、というのをふいに流れて来た動画で見た。熱湯に浸けたあと氷水で冷やした桃を両手で包むように持って、親指に少し力をかけ、そのまま左右に引っ張りながら指をおろすと皮がべりっと破れて脱げる。その様子をくり返し見ていると、だんだん脱がせたさを抑えきれなくなって桃を買ってきた。
小さい鍋に湯を沸かして桃を浸ける。ゆで卵のときはそんな気持ちにならないけれど、生の果物を熱湯に浸すのはわるいことをしている気分になる。すぐに氷水で冷やす。
動画で見たのと同じ手付きで桃を包むように持って、両手のひらを左右に滑らせるように表面を引っ張ると、みごとに皮は真ん中から裂け、うるんだ桃肌があらわになった。
傷ひとつない完璧な甘い水分の塊が、テーブルの白い皿の上で電球色のLEDに照らされている。表面は黄色と杏色のグラデーションで、濃いオレンジのすじの模様が入っている。頭の中でホルストの木星が聞こえてきた。天体に見えている。耳でも聞きたくなってiPhoneが奏でる。
あまりに奇麗なので丸いままひとくち齧り、あとは明日の朝の為に切って冷蔵庫に仕舞った。
その晩は組曲惑星を最初から流しながら布団に入って、ぼーっと天井をながめていると、火星、金星、水星くらいで意識が遠のき、エアコンで快適に冷えた地球の上で眠った。

蟷螂(これでカマキリと読むらしい)

kamakiri

どうもこの蟷螂という字を見ていてもカマキリと読めず、カマキリの姿に繋がらない。つまりカマキリを表すのに蟷螂があてがわれていることでイメージが阻害されノイズが混ざる。字面から受ける違和感を通過する度に、この蟷螂という記号からあのカマキリを、ただ読むよりも積極的に出現させなければならない。

前に見たのはいつだったか思い出せないくらい久々に蟷螂を見た。
ベランダに置いてある日差しに音を上げそうなクリスマスローズにとまっていた。5センチくらいでまだ鎌も小さい。
蟷螂の卵は木の枝につくムースの泡のようなやつで、泡の中から溢れるように孵化する。小学生の頃、3センチくらいの子蟷螂を捕まえて筆箱のなかで飼っていた。飼っているといっても食べものがわからないので、朝捕まえてその日の夕方には花壇にかえしていた。授業中は筆箱のフタを半開きにして様子を伺い、時々見つからないようにノートの上を散歩させた。鉛色の字のうえをそれより細い4本足の翡翠色が通過する。
蟷螂も大人になると簡単に手を出せない迫力を帯びる。放課後運動場で、バケツに少し水をはったところに立派な蟷螂が1匹放してあった。男子がすごいことが起こるから見とけというので見ていたら、しばらくしてお尻の方から黒い針金みたいなものがにょろにょろ出てきた。得体が知れないし、細長くてにょろにょろしたものは大概気持ちが悪い。
これは寄生虫で、こいつが出て行ったら蟷螂は死んでしまうんやぞ、と男子は説明した。この寄生虫は水に浸かると出てくるそうで、時期が来ると蟷螂を内側から操って水辺に向かわせ脱出するらしい。寄生虫は蟷螂の全長と変わらないくらいの長さで、宿主の中にいるのにほとんど変わらない大きさであることも脅威だった。蟷螂には寄生虫を追い出す術がなく、そんなものが自分の中に存在することも知らないで生きている。
その時、蟷螂は本当に蟷螂なのだろうかと思った。寄生虫に動かされている外側なんじゃないか。ゆるぎなくそれと見えていた生き物の中に、見えない生き物が平然と生きている、ということがある。プールびらきの前にぎょう虫検査というのがあったけれど、そういう自分以外の生き物が自分の中にもいる可能性を示唆されたこともあって、もしかすると私も別の何かに動かされている外側なんじゃないかと疑った。
もう少し後になって体というもの自体、細胞の寄せ集まりで、体内にはいろんな菌も住んでいるらしいことを知った。例えば右唇の上にはヘルペス菌がいつからかずっと身を潜めていて、体調を崩したりすると表面にあらわれる。そういうものが感知していないおびただしさでいるのだろう。見えないけれどいるものが。
良いものも悪いものも含めていろんなものが住んでいる集合住宅のような場所が体である。それなら私の思うことや考えることに、住人の及ぼす影響がまったくないと考える方が不自然ではないか。健康であるとき、病を得たとき、体の状態によって物事の感じ方も変わる。
私が思うとか考えるということは、純然たる私の思考という訳ではなく、集合体の意向と欲望の総和かも知れない。だから何かに思い悩んだときには、まず私に耳を貸すように居る、というふうにしてみる。

タテマエウシロ

tatemaeushiro

京都の人は本音とタテマエの使い分けがうまいとかいう。生まれてこのかた京都にいるけれど、それはともかく、タテマエというもののことを最近よく考える。
日常でのタテマエというのは、相手との関係を波風立てず潤滑に維持したいという場合に用いる。だからタテマエとは、ある関係において良きものを保ちたいと思う場合に用いる言葉のありようで、本音を言わないということは、相手に手の内を見せないふるまいというより、相手との関係を維持したいという欲求であると思う。
タテマエを使うとき、言わない本音はどうなっているだろう。タテマエと本音は別物ではない。タテマエは本音の幹から枝葉のように伸びている。本音とは自分自身の状態や気分を基礎とした意向であり、ある状況においてそれを反映させたいという欲求を含んでいる。けれど私はこうしたい、こうしてほしいということをいつもそのまま言葉や行為としてぶつけることで必ずしもその通りになるわけではないし、それがいいとも限らない。私に意向があるのと同時に相手にも意向がある。コミュニケーションを図ることとは、のこぎりで切った本音の幹をごろんと相手に転がすだけでなく、むしろ枝葉を手渡すことで双方の意向の合間を縫って意思疎通を試みることなのではないだろうか。時にはごろんとやるのがいい場合もあるかも知れないけれど、枝葉には花も実もなる。タテマエは嘘ではない。

誰もが本音で話さない世界は他人行儀で味気ないものだろうか。
けれど普段自分が使っている言葉を思い返せば、言葉として使うタテマエの方が私になっているという感覚すらある。本音は言葉を生む源泉として存在するけれど、タテマエを使うことには、自分の感覚することとは違う体を持った他者への想像力が含まれる。その上で言葉を選ぶということで、本音であったはずのものが、タテマエのなかで維持される双方のあいだに吸収されてしまうことも起こる。されに本音だと思っているものの角度を変えてみれば、案外それも確固たるものではなかったりする。それくらいに人はゆらぎのなかにあるものだし、固定化されたものではないとした方が、世界の捉え方が豊かになる気がする。

人との関係のことを間柄と言ったりする。間には柄がある。模様がある。人との関わりにおいてそのあいだにいろんな模様を描けたほうがいいように思う。